非専門家の専門家~自由をもとめた巨人(後)
(前回よりのつづき)
新聞記事(朝日新聞2008年12月6日朝刊)を
読んでの見解でしかないが
「非専門家の専門家」、
ここにも「自由」へのこだわりが
見て取れる。
「枠」にはまるのを好まなかったのかもしれない。
それが加藤周一の名前しか知らないような者に、
どんな存在であるのか
いっそうわからなくさせたのであろうか。
前掲の記事にはこうもある。
(前略)
その秘密はなによりも「自由」を
最優先した生き方にあった。
内外の多くの大学で
教壇に立ったことはあるが、
ほとんどが客員のような形だった。
その理由について
「何かに属した方が、
社会的影響力は強いと思う。
が、その分、考えたり、
社会を観察したり発言したりすることに、
制限が加わる、
物事への判断は、
できるだけ正確でありたい。
となると自由を選ぶんだな。
僕は」
と語ったことがある。
表現の自由を得るためのみならず、
物事への見方・考え方を正確にするために、
自由を選ぶ。
どこにも属さないことは
安定収入もないということであろう。
どの程度に孤独で不安で、心細い
ものであったかは、
本人にしかわからない。
しかし、その「自由」には
まったくブレがなかった。
同新聞12月7日朝刊で
井上ひさしさん(作家・劇作家)は
追悼文にこう書かれている。
戦後、知識人が一斉にマルクス主義に
走った時も、
加藤さんは自分の立ち位置を
変えなかった。
雑種性を尊重して
あらゆることを拒まずに
受け入れ、
でも、自分は動かない。
北極星のような存在でした。
加藤さんを見て、
自分がいまどこにいるのか、
ずれていないかを確認してきました。
心よりご冥福をお祈り致します。
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