流星のごとく現れた中島敦への人々の驚愕
中島敦の文章は文語という言葉はあてはまらないかもれませんが、
山本夏彦は「明治の漢文くずし」と表現しています。
前回の記事の補足のつもりでしたが、
それを調べていて、どうしても紹介したい部分が見つかりましたから、
ここに掲載します。
(以下、同じく山本夏彦著『完本 文語文』よりご紹介します。)
日本でも漢詩文の全盛時代は、
なんと明治30年代で終わっている
のだそうです。
大正以後は英文学は学んでも漢文学を学ぶもの少なく、
昭和にはいなくなりました。
大正以後の文学者で漢詩文の教養を示したものはない
ということです。
その時代が30年間も続きました。そこへ流星のごとく、
現れ一瞬で消えていったのが、中島敦でした。
その当時の人々の驚きぶりが、以下の文章によく出ていると思います。
だから中島敦(明治42年生)が「文学界」(昭和17年2月号)に
「古譚」を書いてデビューした時はほとんど驚愕した。
中島敦の文章は明治の漢文くずしである。
それでいてすこしも古くない。中島は英文学の研究者というよりも
愛読者である。そのせいか清新の気がみなぎっている。
テレビもインターネットもなく、映画があっても今ほど普及していなかった時代、文章は時代の先端をいく娯楽だったでしょう。
その文章が、明治の漢文くずしでありながら、当時の人々があまり触れることがなかった本格的な英文学の影響で洗練されている。
読んだ人々は驚くとともに、中島敦の作品に食いついたのではないでしょうか。
そして、その新鮮さは21世紀となった、
いまでも失われていないのです。
となると中島敦の“凄さ”は、
漢文と英文学の教養だけではないのかもしれません。
話が変わりますが、
使用している「文語」の意味を調べておきました。
(以下、広辞苑より)
日本語では、現代の口語に対して、特に平安時代語を基礎として発達・固定した言語の体系、または、それに基づく文体の称。
平安時代にすでに“文語”はほぼできあがってしまったんですね。
その長い歴史をもつ言語をなぜ、明治の日本人は捨ててしまったのでしょうか。
もう、文語と口語を明快に分けてどちらも使用していた時代に戻ることは
できないのでしょうか。
文語に戻れないということは、日本人が過去の日本人にもう戻れない
ということを象徴的に表しているような気もします。
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