鴎外の描いた大塩平八郎はなぜあそこまで「冷たい」のか?(2)
(前回よりの続き)
大塩平八郎の魂の書『洗心洞箚記』はまだほんの一部を覗いただけであるが、次の箇所をみただけでも、この問いの答えへのヒントが隠されているように思った。
訳文で紹介する。
孔子が畜っていた犬が死んだおり、子貢に車蓋でくるんで埋葬させた。しかし、成人が家畜を埋葬するにあたり、召使いにさせないで、高弟の子貢にさせたのは、あまりにも犬ごときの埋葬を重視しすぎている。わたしはかねがねこのことを疑問におもっていた。ところが、自分の畜っていた犬が死んでみると、はじめて、高弟に埋葬させたのが重視しすぎではないことに気がついた。ああ。
吉田公平訳『洗心洞箚記』(タチバナ教養文庫より)
すなわち、平八郎が、自分の家の飼い犬が死んでひどく悲しんでいるのである。鴎外の短編でも描写されているように大事にのぞんであそこまで沈着冷静でいられたのは間違いなかったであろうが、その彼が飼い犬が死んで「ああ」と嘆息をもらしているのである。
そもそも、彼が反乱を起こしたのは、悪政に苦しみもがく、貧しい民たちのためではなかったのか。
森鴎外は、この作品『大塩平八郎』の附録にこう書いている。
平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。
平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。
大塩平八郎が哲学者であることは認めていても、この文章をみると、かれの行ったこと、一世一代の事業については、少なくともその動機についてもまったく認めていないようである。
鴎外はこの作品を描く前に、大塩平八郎について講演まで行ったそうであるが、彼のことが“嫌い”だったのではないかと勘ぐりたくなる。
そういえば、森鴎外は出世のために時の権力者、山県有朋にすりよったという、ある意味、大塩平八郎とは正反対の一面をもった男であった。平八郎の本質は最後まで理解できなかった、いやまともには見つめられなかったのかもしれない。
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