自己否定を力として前へ進むこと
夏目漱石の『道草』で漱石の分身でもある健三が
兄弟から侮辱を受けた。
ここでは詳しいことは書かないが、
もし自分が健三の立場であったら、
同じく侮辱を受けたと感じるような
ことである。
『出生の秘密』で
著者の三浦雅士氏はこう書かれている。
ところが健三の妻は、健三の僻み根性以外を
見なかった。
それは正当である
なぜなら、ほんとうに兄弟たちは、
健三に対して悪意をもって
侮辱を与えようとして
あえてやったことなのか、
問いただして確認したわけではないからである。
以下、そのまま引用。
(前略)
侮辱の内実を確認する必要など
さらさらなかったのである。
なぜか。
侮辱を必要としていたのは漱石だからだ。
自己否定を必要としていたのは漱石だからである。
自己否定を力としてひたすら前へ進むこと。
それこそ親に愛想をつかすことによって
漱石が獲得した処世術、悲観と憂鬱によって
強いられた人生の方法にほかならなかった。
漱石の出生の秘密がもたらした
最大の帰結といっていい。
まさに僻みの弁証法である
(後略)
※傍線は私が記入
漱石の出生の秘密とは、
漱石が幼い頃、
親とくに母親に愛されなかったこと、
もっといえば、
自分は母親から愛されなかったのだという
自覚である。
ぼくはこの「自己否定を力として前へ進む」
という部分に感銘をうけた。
まさしく、自分もずっと
「自己否定の力」のみを頼りに
生きてきたのではないか。
そして、生まれてすぐ、
まさに母親(つまり私の祖母)
に捨てられたと自覚して生き
死んでいった父を始めとした、
似たような境遇で育ってきた
ぼくの周囲にいた人間も・・・。
自己否定を力として生きることが
「出生の秘密がもたらした最大の帰結」
ということが自分や周囲の人間にも
当てはまるとしたならば、
そこから脱出しようと
自分がもう何年も挑み続けてきたが、
達成しない理由、
そして周囲の者がついに墓場まで
持ち越してしまった理由が
わかったような気がした。
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