躁心 浮気 浅衷 狭量 の八字
年初より
生活のペースがくずれ
ジョギングもできず、
また昨年10月に子どもの運動会で
怪我をした腕がいまだに治らず、
痛くて思うように動かず、
毎年三が日にやり取りをしていた
年賀状のいくつかが先方より来ない
・・・、
この程度のことでイライラしたり落ち込んだり・・・
ようするに「思うようにならない」ことに
とらわれているんですね。
昨年末、
http://momotaro.way-nifty.com/fugaku/2008/12/--5a5d.html
「思うようにならないこと」などに
とらわれない心をつくっていきたい
と思ったばかりなのに・・・。
いつも来ている人から、
しかも何人か年賀状が来ないというのは
多少思い当たる節もあり、
自分の「不徳の致すところ」と反省もしています。
そして、「思うようにならないことにとらわれないように
しよう」と思っていても「とらわれてしまう」
こともふくめて、
今年は“心学”(古典を活学することによって、
心を高めていく、深めていく学問)に
時間の許す限り
真面目に取り組まなければと昨日、ふと
思いました。
と思って取り組んでも、今年1年で結果が出るような
そんな簡単なものではないのですが、
とにかく、始めなければ、自分の「不徳」、「とらわれ」
・・・など、いつまでたっても今のままです
昨年より少しずつ読みすすめて
いた『呻吟語』(講談社学術文庫)も単なる
漢文の知識を増やすだけの勉強に
なっていたのではないかと、反省しました。
このまま原文(読み下し文)と訳文だけでは
深く入れないかもしれないと助けを得るため
あらためて安岡正篤師の講演録『呻吟語』を
読み返してみました。
正確には忘れましたがもう10~20年前に
一度読んだ本です。
そこにはこうあります。
『呻吟語』の著者、呂新吾は、自分はもとより
人を救うために、次の“八字”を去りたいと
いっている。
その八字とは
躁心 浮気 浅衷 狭量
躁心―がさがさと落着きがない心。
浮気―うわついた気。
浅衷―浅はかな心。
狭量―度量がせまい。
この八字四句を去らなければ人間は救われない。
そのためには
旨静(しせい)
―静を旨とせしめなければならない。
そうすれば、人間の精神・生活に
「閑暇」―ゆとりができる。
躁心 浮気 浅衷 狭量
この八字四句はまさに自分の
「不徳」の内容と一致しているではないか、
そして、この八字四句を去ることができれば
前述した「思うようにならないこと」に
とらわれない自分になっているのではないか、
と思いました。
ときどき、ブログでも古典より引用していますが、
知識もたいしたものではありませんが、
自分の心の中身もいまだにこの程度、
お恥ずかしい限りです。
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