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February 28, 2009

どろどろを表現したい②

(前回よりの続き)

十数年間放送作家として息をさせていただいていたテレビの世界だが、かつてと同様な行き方で仕事に戻りたくないと思っている。今まで自分でも気づかずにテレビの視聴率至上主義や自分の体調や人間関係のせいにしてきたが、ほんとうは「どろどろ」がテレビでは表現しにくいというただそれだけではなかったのか。スポンサーや視聴率、局といったいうなればビジネスのフィルターによって浄化され「私のどろどろ」でなくなるどころか、ろ過されてスカスカに消されてしまうことに堪えられなかったのかもしれない。

こうみると視聴率を上げるために、見る人を驚かすばかりで、ほんとうのことが伝わりにくいテレビというマスメディアも悪い面ばかりではないのである。どの世界もそうだろうが、番組の制作者にはどろどろを抱えた人がいっぱいいて、そんなものが公共の電波にあふれかえったら見る方はたまったものではないだろう。数えるほどしかないチャンネルは、視聴者の選択権が極端に狭められているのだ。

(次回へ続く)

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どろどろを表現したい①

深夜、風呂に入っていて、自分が作家を志したのは内側にあるどろどろとしたものを表現したかったからだけではないかとよぎった。

それは目に見える形ではなくて残念だが、ほんとうにどうしようもないくらいねばっこくて、きたなくて、ひねくれたなにものかが、姿かたちはなくともたしかに自分のどこかに存在する。

この形のないものを吐き出すためにこの世に生まれてきたのではないかと、じつに勝手な想像をしている。しかし自分のどろどろを表現するには、それなりに訓練をしなくては誰もみてはくれないし、そもそもそれなりの技術を得なければ表現そのものが不可能である。

(次回へつづく)

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February 24, 2009

自己否定について⑤

(前回よりのつづき)

ただ中には好意的なアドバイスもあります。また取り方によっては、その「だめだし」も自己の真の幸福のためにはなくてはならないものであるかもしれません。

その物差しは自分を肯定された上でのメッセージであるのか、自分を否定された上でのメッセージであるかということです。

自分とはなんであるのか。もちろん人間以外の何者でもありません。つまり、人間としての自分は社会から肯定されているのかどうか。単なる機会として、歯車の一部としてしか見られておらず、その上で「おまえは駄目だ」とか「変われ」とか攻め寄られることはこの社会では日常茶飯事になっています。

もしも、人間としての自己を否定されているのだとしたらそんなものは、馬の耳に念仏よろしく、無視するにしくはありません。「そういうおまえの言葉の使い方こそがだめなんだよ!」と言い返してやってもいいくらいです。

しかし、無視していては生活できないという立場の人はこの社会には多すぎるくらいいる。だとしたならば、従えばいい。でも、だめな自分なんてどこにもいないことを図太くどこまでも認識しているべきだと思います。

                                         

(終わり)

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February 22, 2009

自己否定について④

(前回よりのつづき)

ただここまで書いてきて気づいたことがあります。自分による自分の否定よりも、他者による自分の否定の方がこの世にはあふれているのかもしれないことです。

社会は「おまえはだめだ、おまえはだめだ」とメッセージを送りつけてきます。学生でしたら勉強ができたり、社会人だったら仕事が優秀であったり、金儲けが上手である、有名である、地位があるならばそんなことは少ないかもしれませんが、社会は一般大衆をねらってありとあらゆる機会に「おまえは駄目だ」「これじゃ、おまえは駄目だ」「おまえは変わらねばならない」というメッセージを届けています。

勉強ができない、仕事ができない、得意なことがなにもない、女性とつきあえない、彼氏がいない、結婚できない、子供がいない、元気じゃない、忍耐力がない、精神力が弱い・・・「ほら、だからおまえはだめだ」と。

それに堪えられなくて、みんな、「だめな自分」に鞭打ちはじめます。ほんとうは「だめな自分」なんて、どこにもないはずなのに。そこには自分がなく、ただ社会の圧力に追い立てられている奴隷のような人間がいるだけと表現したならばいいすぎでしょうか。社会の現状をみると決して過分な表現ではないように思われます。

(次回へつづく)

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February 21, 2009

自己否定について③

(前回よりのつづき。初回に全部で3本と書きましたが、どうやら5本くらいになりそうです)

だから、人間は自分を全面的に否定することはできない。なぜなら、自分を否定している、すなわち否定的にとらえているのはそこにいる自分なのですから。ほんとうに否定しているのなら、否定している根本を信じられないわけですから、否定そのものも根拠がないことになります。

そう考えると自殺というものも、自分を認めているからするといえるのかもしれません。自分がだめだという判断を認めているからこそ、自分を殺すことができるのです。

もちろんわたしは自殺を認めているわけではありません。自分の判断でだめだと思い、殺すのですから、じつに勝手だなとおもうわけです。自分だけの自分なんて絶対にあるはずはないのに。生きている以上、この世界の一部ですから、小さな判断で世界の一部を抹殺するのはじつに驕りだなと思います。

ただそういう方は、ほとんどが心の病だといいます。自分を否定するもなにも、死の方向へむかってしまうのですから、やはり他者の助けがどうしても必要です。ここに書いたのは、ほんのときおり死ぬほうが楽かななんて心にもないことを夢想してしまうわたし自身への叱咤激励でもあったわけです。

(次回につづく)

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自己否定について②

(前回よりのつづき)

それにしても、冷静に考えてみると、動きがにぶいとか、物事が長続きしないとか、顔が変だとか、手足が短いだとか、心が暗いだとか・・・いろいろといっちゃもんをつけて結局は自己自身を否定しているのですが、それも変な話です。

なぜなら、否定している自分で否定しているのですよ。ほんとうに自分が否定されるようなひどいものなら、その自分がする「否定」という判断はおかしいものになると思いませんか。だったら、そんな判断を信ずるべきではないでしょう。

おそらくみんな全面的には自分のことをほんとうにひどいものだと思っていないのでしょう。つまり、自分を全否定しているわけではない。動きがにぶいとか、物事が長続きしないとか、顔が変だとか、手足が短いだとか、心が暗いだとか・・・、そう思い感じている認識は正しいとおもっているからこそ、こうした欠点だと思っていることを気にかけることができるわけです。根本では自分を認めているわけです。

(次回へつづく)

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自己否定について①

(※曜日によって「健康」「生き方」「表現」というテーマをもうけておりますが、何を書いてもある意味、それにつながる、つまりいつもそれぞれのテーマに「こじつけ」ているだけなのだなということは常々考えていることです。  

今回はとくに見ようによってはどれも「健康」「生き方」「表現」にみえるということで、「ぶっ続け」で3本させていただきます。更新をしばらくしてこなかったがための苦汁の選択でもあるのですが・・・)

ここのところ、生活のペースがくるい、というよりは心の安定を失い、どうもブログの更新に手をつける余裕がありませんでした。どう心の安定を失っているのか、ようするに、このままの自分ではだめだということをなんとなく思っていることに突き当たるような気がします。

しかし、このままの自分ではだめだと思っていることは、自己のみならず今現在の世界の全否定にもつながるのですね。あなたがあなたを、わたしがわたしを否定することは、あなたやわたしのみならず世界を否定していることです。

あなただけの世界、わたしだけの世界はありえないし、世界はあなたやわたしの中に入っているのですから。そうでしょう、あなたにとってはあなたの見ている世界しかこの世にはないし、わたしにとってはわたしの見ている世界しかこの世にはないのです。

(次回へつづく)

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February 14, 2009

母への償いは同じ病になることでしか他になかった・・・

母の死後すぐ、まったく同じ多発性のう胞腎という難病にかかったのは、母への贖罪だったのだということに気づいた。

                                                                               

 のう胞腎とは、腎臓ばかりでなく肝臓やその他の内臓にも移りながらのう胞が膨らんでいく病である。母は60前後だというのに、妊娠を象った土偶のような腹になり膨らみ続けた。死ぬ間際、手術によってその腹が引き裂かれたが、中は腐敗していて手をつけられる状態ではなかった。人間の腹の中が生きながら腐敗するとはどうしても受け入れられなかった。それが母であるだけに医師から事実を聞いたふりしながらも心の中は完全に拒否していた。

                                                                              

 父の死亡後、自分への母のほんとうの気持ちを知った。そして母までが危篤となり目の前の息子に謝罪をする機会を与えずにこの世を去った。残された息子の自分はドロドロと湧き出てくる絶望、憎しみ、悲しみ・・・の捌け口を失う。せき止められたドロドロの膿はやがて、のう胞となって腎臓や肝臓などの内臓へ押し寄せる。

                                                                              

 母の命を奪ったのと同じ病となり恐怖におののくとともに、それ以上に快感に浸っていたのも事実であった。吹き出たドロドロの膿に浸って、汚臭と不快な感触に体全体くるまれながらも、心の奥底では不思議な快感を覚えていた。のう胞のうみ(膿および海)にぷかぷかと浸かっている。そんな心境であった。母の死後ようやく手に入れた平安のようにも思えた。自分のからだに残された母への償いの道は、自分が母と同じ多発性のう胞腎になるしかなかったのだ。

                                                                              

                                                                              

 その事に最近気づいた。

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February 13, 2009

目立たぬ人間

ずっと目立つ人の方が目立たない人よりも偉いと思ってきました。

                                       

その人が現れるとその場がぱっと明るくなるような華やかな人がいます。一方でそこにいるかいないかわからないような存在の人もいます。自分がただ黙っていれば目立たない方の人間のせいでしょうか、いつも目立たなければならないとの焦燥を感じつつ、とくに若い頃は目立たない他人を見下げてきたような気がします。

                                        

 

 ただ最近はほんとうに偉い人はもしかしたら目立っていない人かもしれないぞとも思い始めています。少なくとも、目立たない人の凄さがわかるような眼力を養わなければとおもいます。そうした飛びぬけた眼力の持ち主というのは自分を映し鏡として徹することができるような透明感のある目立たない人であるかもしれません。

                                        

 昨年亡くなった阿久悠さん作詞、やはり故人である河島英五さんが歌っている『時代おくれ』にもさびの部分にこんな歌詞があります。

                                        

目立たぬように はしゃがぬように

似合わぬことは 無理をせず

人の心を見つめ続ける

時代おくれの男になりたい。

                                                         

 少し前まではどこにでもいたこんな中年男性が、時代に取り残されどこにも居場所がなくなってしまったところに日本人の悲劇があるように思えます。人々がみな、目立とう、はしゃごう、似合わぬことでも無理をしてやろうと人の心が置いてけぼりにされた時代の先端でつぎつぎとヒットを飛ばしながら、このような歌詞を河島英五さんにプレゼントしていた阿久悠さんに底知れぬものを感じます。

                                        

 目立たぬ男性がただのしょぼくれた中年にしかならない時代がはやく終わりを告げることを切にのぞみます。

                                        

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February 11, 2009

「静」は自己を見つめる目

昨日(9日)今日(10日)と東洋医学の陰陽五行と心理学のエゴグラムを合わせたライフカラーチェッカーを使いカウンセリングを行うLCC(ライフカラーカウンセラー)。その養成者であるLCT(ライフカラートレーナー)の資格を得るための講座に参加しました。

 もともと人の視線が苦手で、多人数の前で自分をさらけ出すのに不自然かつ不愉快な自分を自覚してしまう人間なのですが、今回はセミナーによって丸裸に近い状態にされた感があり、終了から8時間以上経過している今でも生々しい記憶がからだに残っています。衣服をはがされた皮膚に直接、実際はそうではなくて恐怖心による錯覚でしょうが、他の参加者からの冷たい視線が矢のように四方八方からチクチクと突き刺さってくるような感覚で始終その中におりました。

 人の心を知るにはまずは自己を見つめなくてはならないということを学びましたが、これによって自分が人様の力をお借りしたり、自己流で自らの弱さ、情けなさ、醜さと思えてしまう部分とこれまで多少なりとも向き合ってきたことは間違ったことではなかったのだと、より明確な線でなぞることができたのは何よりの収穫でした。今こうしてセミナー中の心理状態を振り返っているのも、その一環であるには違いないのですが・・・。

明末の哲人、呂新吾が『呻吟語』で繰り返しているのが心の中に『静』をたもつことです。そして、「その心の中の『静』によって『自己を見つめる』事だ」と気づかせてくれたのが、LCT講座の帰りに立ち寄った池袋の書店で、まるで手を引かれるかのように書棚から取り出してしまった『臨済・荘子』(岩波書店)という文庫です。昭和632歳という若さで夭折した前田利鎌という人の著作です。

(前略)

しかし自己に忠実に、己れの問題に真剣に沈潜して行くということは、決して容易な業ではない。ちょうど水底に潜ろうとするものが、自己の浮力によって、ともすれば水面に浮かび上がろうとするように、我々は華やかな群集の中で、笛を吹いて踊りたい、乃至は痛快に動きたいという欲望に駆られやすい。独りでいては無聊(ぶりょう)に苦しむ、というのは本統に自己に沈潜し切れないものの浮動性から来る焦燥である。静かに自己の問題を考え詰め、乃至はひとり自己を養い育てるためには、この浮動性を克服して、無聊に堪えて行くだけの忍辱が必要である。

(後略)

 呂新吾も躁心(騒がしい心)・浮気(浮ついた気分)・浅衷(浅はかな心)・狭量、この八字を去れ、そのためには『静』になりなさいと書いています(『呻吟語』より)。

 こうしてほんとうの意味で心の中にたもつことができるならば『静』そのものが、自分の心を見つめる目となってくれるのかもしれません。はやくそのような『静』を得たいと望んでおります。

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February 08, 2009

自分を変えるー東洋思想の本質

本を読んでいて、簡単に読める本もいいものはいいのだけれど、良書だけれど自分にとって難解なものにチャレンジすると簡単なものよりも得られる手ごたえが違う。そういうものは気力、体力-全身のエネルギーがいる。体調がすこぶる悪い時などなかなか読めるものではない。

 簡単に読みすすめることができるのだけれども、得るものが大きいといつも感心するのが、小林正観さんの本である。おそらく仏教からきているのだろう深い哲理を、誰にでもわかりやすく、明快に書かれている。

 先日、新古書店で手にした『笑顔で光って輝いて』には、もう「はじめに」から驚いた。

                                          

 ずいぶんたくさんの相談を受けてきました。

 そのおかげでたくさんの答えを天からいただいてきました。

 相談事の解決法は、大別するとふたつ。西洋的な解決方法と、東洋的な解決方法と、です。

 西洋的な解決方法はおもに学校で教わりました。「努力して」「がんばって」自分を取り囲んでいる状況を変えて自分の思うとおりにする、というのがその方法です。「私」の外を変える方法です。

 それに対し、「私」のほうを変える、「私が変わる」という方法もあります。どちらがよくてどちらが悪いという話ではありません。

 たとえば、職場が大声の飛び交うところだとします。怒号、罵声、イライラが満ちているとしましょう。その状態を「私」の気に入るようにする、変えるというのは至難の技でしょう。

 それを、「私」が気にしない、さらに進んで「気にならない」ようになったら、別に変える必要がありません。「気にならない私」ができあがったら、職場が荒れていても、淡々と!ニコニコと、ゆったり生きていけます。

                                        

 「西洋的な解決方法と、東洋的な解決方法」と書かれていますが、これは「西洋思想と東洋思想」と書き換えることができるのではないだろうか。自分もそんなに詳しいわけではなく、好きで主に東洋思想系の書物を読んでいるのだが、小林正観さんは東洋思想の真髄をずばりとしかも分りやすい言葉で書かれている。

 安岡正篤著『百朝集』では、大塩平八郎の言葉の解説部分で、こう書かれている。

                                                         

 君子は巧妙富貴を念とせず、学問成熟を旨とする。その学問とは何であるか、窮して困(くるし)まず、憂えて意(こころ)衰えず、禍福終始を知って惑わぬ心術を養うを本義とする。

                                                         

 「窮して困(くるし)まず、憂えて意(こころ)衰えず、禍福終始を知って惑わぬ」とは、「まさに「気にならない私」になることと同じことだ。

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February 04, 2009

どんどん落ちるぼく

テレビを見ていて、多くの人が飢餓や戦火で死んでも

なんでもなくなった。

路上にホームレスが一人や二人いても気にならなくなった。

駅で誰かが倒れていても、気にしなくなった。

震災でいまだ苦しんでいる被災者がいるという報道をみても

なんともなくなった。

ホームレスが嬲り殺されたというニュースをみても

当たり前になった。

派遣切りで、たくさん若い人たちがホームレスになっているのを

街で見かけても平気になった。

・・・・・

いずれは、

散歩の途中、街に屍(しかばね)が累々としていても

平然としていられるようになるのだろうか・・・。

                                       

ぼくは、どんどん落ちていく。

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February 02, 2009

われわれにはもう“身体”がない

ぼくたちが今、取り戻さなくてはならないのは、

“健康”というビジネス社会の中で、

すかすかにうすっぺらにされ、なんの手ごたえも

なくしてしまったような言葉ではなく、

自分の“身体”ではないのか。

その証拠に、あなたは“健康”と言葉を発して、

あるいは“自分の健康”と今、言って、

切実なるもの、なんとしても守らなければならないもの

とか取り戻さなくてはならないものと

感じられるかどうか。

“自分の健康”と言って、まるで他人事のように

感じてしまっているということはないか。

それは、“健康”という言葉の性質というよりも、

もうわれわれが“身体”を失っているからと

思うべきではないか。

ぼくたちには、自分の“身体”というものが

ほとんどなく、

もちろん、姿かたちはあっても、それを実感として

とらえられないならば、“身体”はないと

いうのと、まったく同じであり、

「身体はない」ということである。

“身体”がないからこそ、われわれには

真に痛みを感じることができず、切実に

“健康”ということばを使えないのだ。

しかもその言葉自体が資本主義社会の中で、

マスコミなどによって、ボロボロにされ、すかしてみると

向こうが見えるような薄っぺらなものになって

宙をふわふわ浮いているだけの

中身のまったくないつまり“け”と“ん”と

“こ”と“う”をただ単に順番に並べたもの

にされてしまったのだ。

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