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February 11, 2009

「静」は自己を見つめる目

昨日(9日)今日(10日)と東洋医学の陰陽五行と心理学のエゴグラムを合わせたライフカラーチェッカーを使いカウンセリングを行うLCC(ライフカラーカウンセラー)。その養成者であるLCT(ライフカラートレーナー)の資格を得るための講座に参加しました。

 もともと人の視線が苦手で、多人数の前で自分をさらけ出すのに不自然かつ不愉快な自分を自覚してしまう人間なのですが、今回はセミナーによって丸裸に近い状態にされた感があり、終了から8時間以上経過している今でも生々しい記憶がからだに残っています。衣服をはがされた皮膚に直接、実際はそうではなくて恐怖心による錯覚でしょうが、他の参加者からの冷たい視線が矢のように四方八方からチクチクと突き刺さってくるような感覚で始終その中におりました。

 人の心を知るにはまずは自己を見つめなくてはならないということを学びましたが、これによって自分が人様の力をお借りしたり、自己流で自らの弱さ、情けなさ、醜さと思えてしまう部分とこれまで多少なりとも向き合ってきたことは間違ったことではなかったのだと、より明確な線でなぞることができたのは何よりの収穫でした。今こうしてセミナー中の心理状態を振り返っているのも、その一環であるには違いないのですが・・・。

明末の哲人、呂新吾が『呻吟語』で繰り返しているのが心の中に『静』をたもつことです。そして、「その心の中の『静』によって『自己を見つめる』事だ」と気づかせてくれたのが、LCT講座の帰りに立ち寄った池袋の書店で、まるで手を引かれるかのように書棚から取り出してしまった『臨済・荘子』(岩波書店)という文庫です。昭和632歳という若さで夭折した前田利鎌という人の著作です。

(前略)

しかし自己に忠実に、己れの問題に真剣に沈潜して行くということは、決して容易な業ではない。ちょうど水底に潜ろうとするものが、自己の浮力によって、ともすれば水面に浮かび上がろうとするように、我々は華やかな群集の中で、笛を吹いて踊りたい、乃至は痛快に動きたいという欲望に駆られやすい。独りでいては無聊(ぶりょう)に苦しむ、というのは本統に自己に沈潜し切れないものの浮動性から来る焦燥である。静かに自己の問題を考え詰め、乃至はひとり自己を養い育てるためには、この浮動性を克服して、無聊に堪えて行くだけの忍辱が必要である。

(後略)

 呂新吾も躁心(騒がしい心)・浮気(浮ついた気分)・浅衷(浅はかな心)・狭量、この八字を去れ、そのためには『静』になりなさいと書いています(『呻吟語』より)。

 こうしてほんとうの意味で心の中にたもつことができるならば『静』そのものが、自分の心を見つめる目となってくれるのかもしれません。はやくそのような『静』を得たいと望んでおります。

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