自己否定について⑤
(前回よりのつづき)
ただ中には好意的なアドバイスもあります。また取り方によっては、その「だめだし」も自己の真の幸福のためにはなくてはならないものであるかもしれません。
その物差しは自分を肯定された上でのメッセージであるのか、自分を否定された上でのメッセージであるかということです。
自分とはなんであるのか。もちろん人間以外の何者でもありません。つまり、人間としての自分は社会から肯定されているのかどうか。単なる機会として、歯車の一部としてしか見られておらず、その上で「おまえは駄目だ」とか「変われ」とか攻め寄られることはこの社会では日常茶飯事になっています。
もしも、人間としての自己を否定されているのだとしたらそんなものは、馬の耳に念仏よろしく、無視するにしくはありません。「そういうおまえの言葉の使い方こそがだめなんだよ!」と言い返してやってもいいくらいです。
しかし、無視していては生活できないという立場の人はこの社会には多すぎるくらいいる。だとしたならば、従えばいい。でも、だめな自分なんてどこにもいないことを図太くどこまでも認識しているべきだと思います。
(終わり)
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