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March 28, 2009

朝のあいさつ・・・

本日(28日)は、息子、モモイチロウ(ペンネームです)の卒園式です。4、5年間は通ってきた保育園だけに感慨ひとしおです。いよいよ4月よりは小学校です。

 朝の送りは私もちょくちょくやっていたのですが、お父さんが送ってくるのは少なくお母さんばかりで顔を合わせるのが恥ずかしいという気持ちもありました。相手から「なんであそこのうちは父親が連れてこられるのだろう」「仕事がないんじゃないか」「もしかして専業主夫?」・・・と思われているようにとらえてしまい、人と落ち合ったら穴に入って隠れてしまいたいという心境のときもありました。

 であるからこそ、教育者であり哲学者の森信三先生の「朝のあいさつ、人より先に」という言葉を糧に、朝、うちの息子と違うクラスの子をもつお母さんに対しても、出会う人、全員に対して真っ先に「おはようございます」というようにしました。

 多くの方は、「おはようございます」とあいさつを返してくれたのですが、中には、迷惑そうにして、ろくにあいさつを返してこない人も数人いました。

 ところが、今となっては、みんなあいさつをしてくれます。こちらが、うかうかしてあいさつしないでいると、皆さん、向こうから「おはようございます」と元気にあいさつをしてくれます。森信三先生の言葉を実践してきたよかった、つくづく実感しました。ほんのちょっとしたことではあるのですが、自分にとっては小さな成功体験でした。

 本日の卒園式では、うちの妻もふくめて働くお母さんたちが、時間をつくって練習・準備をしてきた卒園の出し物(ペープサート劇)があります。じつは僕も台本でからみました。皆さん、四苦八苦しながら時間をつくり行ってきたことですので、ぜひとも成功してもらいたい、少しハラハラしながら、祈るような気持ちでおります。

 明日は早いです。もう寝なければ・・・。

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March 26, 2009

遺伝子のON/OFFとは魂のON/OFF?②

(前回よりのつづき)

 晴れていると「日差しが暑すぎる」と文句をいい、雨がふれば「濡れるからうっとうしい」という、そんな人が環境に左右されている人なのでしょうね。「今日は晴れていてすがすがしい」また「雨の日のしっとりとした空気が好き」という心を持った、つまり環境に左右されずに、ガンでいえば抑制遺伝子をONにして、発ガン遺伝子をOFFにできるひとなのでしょう。

 スピリチュアル的にいえば、村上和雄教授のいう心とは魂をおおっている心をいい、遺伝子とは魂のことととらえることはできないでしょうか。

宗教家であり、日本における自然農法の創始者、岡田茂吉は昭和18年の論文でこう書いています。

本来、人間の霊体はその中心に心があり、心の中心に魂があって、三段になっているのである。そうして魂本来は良心そのものであるが、断えず外界からの影響によって曇らされるのである。即ち、魂本来は日月玉の如き光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである。故に、明鏡止水の如き心境にあれば、魂は晴天の日月の如く輝くのである。(「明日の医術第三編『罪穢と病気』」より)

これは村上和雄教授の主張されている「心の持ち方如何によって遺伝子のONN/OFFは決まる」と同じことをいっているのではないでしょうか。

魂本来は日月玉の如き光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである」とは、魂はもともときれいなもので、底知れぬパワーのあるものであるけれども、考え方‐心の持ち方によって、魂の光は失せ、力を発揮できなくなるといっています。この魂を遺伝子ととらえれば、ピタリとあてはまっているように思うのですがいかがでしょう。ただ、遺伝子の場合は、人間の視点からすれば悪い遺伝子もあって、それはOFFのままであってほしいものでしょう。

魂が遺伝子にあたるとすれば、岡田茂吉は「魂本来は日月玉の如き光明」であるから、遺伝子もそうでなければならないはずなのにおかしいということになります。しかし、よく考えてみれば、ONにしたくない遺伝子も人間の側からみればそうだけであって、悪いといわれる遺伝子も何か使命があって人間に埋め込まれたのかもしれません。見方をかえれば遺伝子には善も悪もないのかもしれません。

そのバランス失調は発ガン遺伝子ON、ガン抑制遺伝子OFFというかたちをとります。このON/OFFは、その人間のものの考え方によっても違ってくるように思われます。(『遺伝子の暗号』より)

との村上和雄教授の説は、これからもっと魂と遺伝子の関係という視点から、研究されていっていいことのように思います。(終わり)

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遺伝子のON/OFFとは魂のON/OFF?①

遅ればせながら、サムシング・グレートで知られるDNA研究の第一人者、筑波大学名誉教授の村上和雄氏の講演CDを聞いたり、著作を読んだりしています。

サムシング・グレートという言葉をよく使われることからもわかるように、人智では計り知れない力を認めているどころか、科学によってその解明に迫ろうという志をもち向っていらっしゃっているようです。このような科学者がいたのかというような想像以上の驚きを覚えました。

ここでその著作からガンについて書かれた一文を引用させていただきます。

 ガンという病気が治療しにくいのは、発ガン因子が多様なためですが、そこに精神作用を含めた環境因子が大きくかかわっているからだと思います。ガンには発ガン遺伝子とガン抑制遺伝子があって両者のバランスが崩れたときに発病することがわかっています。

 そのバランス失調は発ガン遺伝子ON、ガン抑制遺伝子OFFというかたちをとります。このON/OFFは、その人間のものの考え方によっても違ってくるように思われます。

 また、ガンは環境因子が大きいといわれていますが、私にいわせれば環境は物理的な影響だけでなく精神的な影響もあります。

 環境というと空気が汚れている、騒音がすごい、水がわるいといった物理的側面が強調されがちです。そういう情報が与える心理的側面も含めて、最終的には心の問題のほうが大きいのではないか、という気がします。

「人間の場合、心の持ち方いかんが環境になってくるんですね。幸福であることも、健康であることも、すべて心から出発しているんです。環境が絶対にいいからといっても、環境と個体の生命とは相互作用をしていますから、心の持ち方によって、この環境がいいと解釈すれば、それはいい環境としてとらえます。環境の良否に絶対性は一つもないわけです」

 ハイポニカ農法を開発された野沢重雄さんが、私との対談でいわれたことで、私もこの考え方に全面的に賛成です。

 人間のなかでは、心が非常に大きな力をもっています。野沢さんがおっしゃるように、本当によいように解釈すれば、病気だって落第だって失職だってありがたいわけです。それによって人生が深まることもあるし、人の痛みがわかることもある。そればかりか、まったく新しい輝かしい未来へのスタートになるかもしれない。長年研究をやってきて、「もうダメだ」と思ったとき、実はけっして「もうダメ」にはなっていないということが何度もありました。

 自分の経験からも、それは確証に近いといえます。(サンマーク出版『生命の暗号』より)

(次回へつづく)

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March 22, 2009

何を選ぶか?~『呻吟語』抄録にみる編者の個性 ④

(前回よりのつづき)

                                                                                 

講談社学術文庫の『呻吟語』(絶版)を訳注した荒木見悟(※他の方同様、一連のこの記事では敬称略とさせていただいています)のプロフィールを見てみますと以下のようになっています。

1917年、広島県生まれ。九州大学文学部卒業。中国哲学専攻。九州大学教授を経て現在、九州大学名誉教授。主著は『仏教と儒教』『禅の語録17大慧書』『日本思想大系34貝原益軒・室鳩巣』『明代思想研究』『明末宗教思想研究』『禅の語録14輔教編』『陽明学の開展と仏教』など。

とありました。このプロフィールとアマゾンなどでその他の著作をみてみますと、儒教と仏教、とくに陽明学と仏教の比較をご専門にされているようにも思えます。公田連太郎も安岡正篤(豊田良平)も深沈厚重の文を『呻吟語』の思想の根幹をなしているとしているのに、その文を荒木見悟がのせてもいないのは、儒教の中だけにおさまらない仏教よりの視点があるなればこそではないかと考えたくなります。が、浅学菲才の小生にはよくはわかりません。

余談ですが、私は荒木見悟をまったく存じ上げていなかったのですが、図書館で『日本思想大系34貝原益軒・室鳩巣』を読んで、学者であるのにすごい文章を書く方もおられるのだと思ったのが初めでした。からだに突き刺さり、魂に響くような言霊を記憶しています。名前を見て、どこかで見たことがあるなと思い、「ああそうだ。うちにある『呻吟語』の訳者」だと気づいたときは嬉しかったです。

さっそく帰って、『呻吟語』を開いてみると、訳と解説ですから心に突き刺さるような言葉はほとんどなかったのですが、わかりやすく正確に訳出されているのだなという印象を受けました。前回の記事でも一文を載せましたが、訳文であるにもかかわらず訳文とは思えないようなすっきりとした、簡潔な文章で書かれています。おそらく『呻吟語』を自家薬籠中の物としていて、現代日本語に完全に練り直して書かれているのだと思います。だからわかりやすく、訳文であるにもかかわらずストンストンと腹に落ちてくるのでしょう。

                                                                                    

「深沈厚重」、何故その部分がないのか・・・に戻ります。ネットで検索するとあるサイトでは荒木見悟は陽明学の大家と出ています。小生のような学識がほとんどないようなものの知識ではとてもわかるようなことではないかもしれません。この方の著作も読んだのは『呻吟語』と『日本思想大系34貝原益軒・室鳩巣』の一部のみです。

ただ荒木見悟の『呻吟語』の巻末にある解説にはこう書かれています。

『呻吟語』は、以上のような立場から、呂坤が、政治的社会的諸問題から日常茶飯事に至るまでの憂慮・憤懣・内省・危惧・対策・信念を率直に披瀝したものであって、断片的な言葉の集積ながら、著者の人柄が如実ににじみ出ているとみられよう。その執筆動機は、著者の自序(万暦二十一年)にくわしい。

 呻吟とは病人のうめき声である。呻吟語は、病気にかかった時の痛みの言葉である。病中   の痛みは、病人だけが分かる。他人には分かってもらえない。その痛みは、病気の時だけ感じる。なおってしまうと、すぐに忘れてしまう。私は生まれつき体が弱くてよく病気にかかった。病んでいるとき、うめき声をあげると、その苦しさを記して自分で後悔し、気をつければ、二度と病気にかからないだろう、と思った。だが気をつけないために、また病気にかかり、また苦しみを書きつけた

こうして病んでは書き、書いては病んで三十年に及んだというのであるが、ここにいわれる病気とは、肉体的なものであるよりも、むしろ精神的なものであることはいうまでもなかろう。そして先にのべたような彼と陽明学派との対立にもみられる複雑多端な思想界の動向が、一層きびしく彼の省心傾向を深めたことであろう。(※傍線は私-筆者)

 このように、『呻吟語』の著者である呂新吾の内省的な面を強調しています。それは、同じく『呻吟語』巻末の解説で、まず初めに、呂新吾が自己の修養の手段として利用していた『省心紀』に注目していることでもわかります。

                                                                                 

                       (次回につづく)

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何を選ぶか?~『呻吟語』抄録にみる編者の個性 ③

深沈厚重は是れ第一等の資質。

磊落豪雄は是れ第二等の資質。

聡明才弁は是れ第三等の資質。

公田連太郎訳注の『呻吟語』には、この文の注で、

「巻の四品藻篇にも、『安重深沈なるは、是れ第一等の美質なり。天下の大難を定むる者は、此人なり。天下の大事を弁ずる者は、此人なり。剛明果断なるは之につぐ』云云の一章あり。」

とあります。

 ここでその部分の全文を紹介します。

 安重深沈なるは、是れ第一等の美質なり。天下の大難を定むる者は、此人なり。天下の大事を弁ずる者は、此人なり。剛明果断なるは之につぐ。其他、浮薄にして好みて任じ、能を翹てて自ら喜ぶは、皆、行い、遠ばざる者なり。即し諸を行事に見はせば、施為、術無く、反つて事を僨る。此等は只だ談論に科居る可きのみ。

 以下、訳文は、講談社学術文庫、荒木見悟訳によるものです。

 どっしりと沈着なのは、何にもまさる素質である。天下の重大な難局を乗り切れるのは、この人である。天下の重要な課題を処理できるのは、この人である。これに次ぐのは、しっかりとした見通しをもち決断力のある人である。その他、軽薄で出しゃばったり、能力を見せびらかして悦に入るのは、いずれも口ほどに実行が伴わない連中である。もし彼らを実務にあたらせたら、そのやり方は無鉄砲で、かえって物事をだめにしてしまう。こういう連中は実務にあたる資格はないのであって、ただおしゃべりする仲間においておけばよいのだ。

 豊田良平著の『古典を活学する』にも

「要するにこの章の深沈厚重と、この後章の安重深沈になるためには、どういうふうに気質を変えるべきかということを、あらゆる角度から説いているわけです」

 つまり、深沈厚重と安重深沈をほぼ同じ意味であるとし、これらの文に表れている思想こそが『呻吟語』の中心をなすというわけです。

 豊田良平は同書で深沈厚重について、

「この深沈厚重の深は、深山の如き人間の内容の深さであり、沈は沈着毅然ということです。厚重というのは重厚と同じで、重厚なる人ということです。重は重鎮する、つまりどっしりとしていて、物事を治めるということで、上に立つ人はそれぞれの立場において、重鎮することが必要です。換言すれば、その人が黙っていても治まるということです」

また、安重深沈については、

「この安重の安は人を安心させることです。人を安心させるということは、政治においても、企業においても最も大事なことです。あの人ならば安心してついていける、絶対に間違いがない、そういう人物のことです。

 論語に『老者は之を安んじ』とありますが、われわれも人を安心させ得る人物にならなければなりません。安岡先生(※注)の道を学んでいるものは、そういう人物になるように心を練らなければなりません。また安重の重は、さきほど述べましたように、重鎮するということであります」(※注‐安岡正篤のこと)

とあり、2つの言葉の多少の違いはあるものの、深沈厚重、安重深沈、このような人物になるためにはどうすればいいのか書かれているのが、『呻吟語』だというのです。

 さきほど訳文を提示したように、荒木見悟の『呻吟語』には、深沈厚重はないけれども、安重深沈の文はあるのです。どうせ似たような意味ということで、片方を削ったということは紙数の都合もあるだろうし、考えられなくもないでしょう。

 しかし、深沈厚重は「性命」の章に出ており、安重深沈は「品藻」であり、深沈厚重の方が先に出ています。しかも、深沈厚重の文は、前掲を見ていただくとわかるように、安重深沈よりも短く分りやすく示していると見られ、似たような意味であるから片方をはずしたとして、なぜ、深沈厚重をはずし安重深沈のみにしたのか、疑問が残るところです。

(つづく)

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March 15, 2009

血圧が急に下がったワケ(2)

310日の記事よりのつづき)

走り始めて2ヶ月半くらいで風邪を引いたせいもあり、その後は走っておりません。風邪で気管支が不調な状態で走ると、ただでさえ軽い喘息発作が起きることが多いのに、ひどい呼吸困難に陥るからです。ジョギングは血圧だけでなく、汗をかくためにからだには特にいいと思っているので、いずれは再び始めるつもりではいますがここのところは走っていません。

というわけで毎朝血圧の測定をするばかりで、自然に上ったり下がったりするのにまかせ、自発的には血圧のためにこれをやろうということはなくここ1ヶ月ほど過ごしてきました。

ところが近頃、血圧が下がっています。

夜寝るのも二時、三時・・・と新聞配達の足音が聞こえる時間帯まで起きていることが多く、寝床についても仕事等の緊張のためか、1時間経っても眠れないことが多くなっています。コーヒーも増えていて、一昨日などは1日に4杯も飲んでしまいました。

それでも、血圧が下がっています。もちろん、医者が処方する降圧剤はまったく飲んでいません。どうしたというのか・・・。たしかにここのところは、気候も暖かめではありましたが。

じつは、ここのところ、別に血圧だけを意識したのではありませんが、健康食品を二種類ほどのんでいます。うちのネットショップに販売しているものでいま紹介すると、あまりにも露骨な宣伝になる恐れがあるので商品名は避けますが、キレート・サプリメントとパパイヤ発酵食品です。とくに後者は息子がインフルエンザにかかり、自分にうつされてはいけないと期間限定でのんだものでした。

両方とも始めてからせいぜい1週間くらいしか経っていません。それなのに収縮期血圧(上)も拡張期血圧(下)もともに10近く下がっているのです。夜早く寝て、コーヒーをまったく飲まず、ストレスを極力受けないように生活して、その上で走っていてもここまで下がるのはそうはないことだと思います。

  どちらのサプリメントの影響なのかそれとも両方摂るのがいいのか、今後はどうなるのか、一時的なものではないのか、しばらく様子をみて、またご報告したいと思います。(終)

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March 12, 2009

何を選ぶか?~『呻吟語』抄録にみる編者の個性 ②

(前回-311日よりのつづき)

深沈厚重は是れ第一等の資質。

磊落豪雄は是れ第二等の資質。

聡明才弁は是れ第三等の資質。

この『呻吟語』の一文だけで、一冊の名著を書き上げてしまったのが、やはり安岡正篤の弟子であった経済評論家・伊藤肇です。

代表作ともいえる『人間的魅力の研究』は、3つの資質に沿って、歴史上の人物から現代に至るまで縦横無尽に人間の魅力を語っています。

 

歴史上の人物でいえば、

                                                                              

“深沈厚重”は、良寛、西郷隆盛、等。

 “磊落豪雄”は、道元、日蓮、桐野利秋、等。

 “聡明才弁”は、曹操、馬謖(ばしょく-『三国志』の人物)、等。

                                                                                                                                                               

『人間的魅力の研究』を読むと、上記の『呻吟語』の言葉を骨格に、肉付けして、皮膚で覆ったかのような具体的なイメージを得ることができます。

ところで、『呻吟語』の全巻訳注をした公田連太郎は、『深沈厚重は是れ第一等の資質。~ 』の解説で、

                                                                            

呂新吾先生が深沈厚重なる資質を最も喜ぶこと、以て観る可し。深く味わうべきなり。是れ呻吟語全巻を貫く思想なり(※下線は筆者)

                                                                                                                                                               

と、この文の重要性を書いています。

それについては、『呻吟語』を愛する多くの方にとって異論のないところだと思います。

ところが、講談社学術文庫、荒木見悟の『呻吟語』には『深沈厚重は是れ第一等の資質。~ 』が載せられていません。同書の解説文には、「公田連太郎氏の『呻吟語』(明徳出版社刊)は、その増補本の一種を、全巻にわたり訓読文として書き下ろしたものである」と書かれており、おそらく講談社学術文庫版の『呻吟語』を訳出する際に、公田連太郎訳注を参考にしたと思われます。それにも関わらず外しているのは、何か深い考えがあってのことではないかと考えたくなります。

中国や日本では抄録本や増補本でさまざまな『呻吟語』が出ていますが、一番長いもので千九百七十六の文章を収録しているそうです。荒木見悟のものはそのうちの二百十八ですが、紙数の制限があるとはいえ、それらに絞ったのはどのような思想に基づくものなのか関心を抱きました。

                                                                              

(次回へつづく)

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March 11, 2009

何を選ぶか?~『呻吟語』抄録にみる編者の個性

論語のような語録の抄録でも、何を書き抜いたかによって、編集した人の個性が出るようです。いうなれば、何を選ぶか・・・。その人の現在も過去において何を選んできたかが表れているのであって、抄録においても選ぶ者の色が出るのは当然かもしれません。

※抄録とは、広辞苑で引くと「書き抜くこと。また、書き抜いたもの。ぬきがき」とあります。

今年、思い切って公田連太郎訳『呻吟語』を買いました。昭和30年発行であり古書しかなく、単行本の新刊が数冊買えてしまう、自分としては懐がずきずきと痛むような買い物だったのですが、後悔はしておりません。口語訳がなく、読み下し文までのために四苦八苦しているのですが、少しずつ読み進めています。

これは、明治以降、おそらくそれ以前より、日本で唯一、呂新吾の『呻吟語』を全訳注した本です。その後も、すべてを掲載したものはなく、あるのは抄録や解説本のみのはずです。

抄録では、明徳出版社、疋田啓祐訳のものがありますが読んでおりません。私がもっているのは、徳間書店、守屋洋編・訳のものと、講談社学術文庫、荒木見悟によるものです。それから、解説した本では、致知出版社、安岡正篤の『呻吟語を読む』、そして同じく致知出版社、安岡正篤のお弟子さん、豊田良平の『古典を活学する』にも『呻吟語』のことが書かれています。

おもしろいと思ったのは、講談社学術文庫、荒木見悟の本だけには取り上げられていないで、他の本にはすべてある部分があることです。しかも、公田連太郎も豊田良平も重要な箇所とらえています。それがこの一条です。

深沈厚重は是れ第一等の資質。

磊落豪雄は是れ第二等の資質。

聡明才弁は是れ第三等の資質。(性命)

〔訳〕どっしりと深く沈潜して厚み、重みがあるというのはこれは人間としての第一等の資質である。大きな石がごろごろしておるように、線が太くて物事にこだわらず、器量があるというのは、これは第二等の資質である。頭が良くて才があり、弁が立つというのは、これは第三等の資質である。

  安岡正篤著『呻吟語を読む』より

                        (次回へとつづく)

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March 10, 2009

血圧が急に下がったワケ(1)

血圧を下げたいと、書物を参考に2ヶ月間は週2回以上のジョギングをしました。少しは下がるのですが、夜更かしやコーヒーの飲みすぎなどですぐに上ってしまいます。

緊張を強いられること、つまりストレスを多く受けたと思われる日の翌日などは、走っていてもぐんと基準値を超えてしまいます。寒さというのがクセもので、寒ければ寒いほど血圧計に表示される値がのびます。

こんなことから、血圧を下げるためには、ジョギングやウォーキングなど何かをするよりもまずは、血圧を上げていると思われるマイナス要因を取除いていくほうが先決問題であるとからだで覚りました。

ところが、コーヒーは大好物です。かなり前にコーヒーはよくない、やめようといった記事を書きましたが、ほんとうは自分への呼びかけであり、コーヒーをやめることの決意のつもりでした。でもいまだにやめられていません。

以前より仕事は夜の方が能率が上りました。仕事相手から「おまえは夜書いた原稿の方がいい」といわれたこともありました。早起きを習慣づけていたときも、夜眠いときよりも早朝の方が頭はさえないという自覚がありました。

緊張やストレスがよくないといわれても、避けられるものなら避けたいのに、避けられないというのが緊張やストレスです。寒さなんてものは、たとえどんなに暖房をたいているうちでも、外に出ればからだを冷やさざるを得ません。

315日更新の記事-“健康テーマ”につづく)

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March 07, 2009

之を楽しむ者に如かず③(終)~定年後の趣味~

(前回よりのつづき)

                                        

(前略)

しかし、そういった天職という高級な話でなくともいい。今は老年が長く、老年をいかに充実させて生きるかが大きな問題になっているが、そのときもすべては何か本当に好きなものを持っているかどうかにかかっている。趣味といっても世界は広く、読書が生き甲斐という人もあれば、音楽、絵描き、染めもの、織物、短歌、俳句、習字、外国語、マラソン、山歩き、外国旅行、等々いろいろある。碁、将棋だっていい。とにかく何でも本当に好きになって、それが楽しみにまでなれば、人生を輝かしてくれる。趣味が何もない人と、真に情熱をこめたものをもつ人とでは、老年の日々がまるでちがってくる。

(中略)

 これに対し、勤めているあいだじゅう会社や工場や官庁のことしか念頭になかった、いわゆる会社人間は定年後どうしようもない。わたしには信じられないが、個人的な趣味を一つも持たないという人も、世の中にはいるのであった。定年とは自己一個になることだから、そのとき何もすることがないのだ。(中野孝次著『幸福になるための言葉45』より。※傍線は筆者が記入)

                                                             

「定年とは自己一個になることだから」が実によく効いている。「自己一個」、これはほんとうをいえば定年後ばかりでなく現役時代もそうであったはずだ。ただ「自己」というものを見てみぬふりをしてきただけにすぎない。

 いまだ現役の者としては、たとえ会社に勤めていても、金のための仕事をしているにすぎなくとも「自己一個」を忘れずにいきたいものだ。または時折、「自己一個」に還る時間をもつことが肝要であろう。きっと「自己一個」になることのみが、ほんとうに生きていることだから。

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March 06, 2009

之を楽しむ者に如かず②

(前よりのつづき)

                                        

                                           

省みて、自分は「知る」だけにとどまっていて、「好む」にも至っていないのではないか。「楽しむ」という境地にはほんとうにはこれまでの人生に一度も至っていないのかもしれない。もし「楽しむ」があったとすれば、幼児期から少年期にかけて空想にふけっていたことだ。そういえば、その頃の心境を取り戻すことがここ数年のテーマでもあった。何かに夢中になりたい。しかし、夢中になれない。夢中になれそうなものが見つかっても、それをやることによってどれだけ社会や他人から評価されるかが気になってしまう。

(前略)

楽しみだからその中に没入し、他を気にすることなどない。人に気にいられようとか、社会に評価されて有名になろうとか、そんな欲望がちらちらするうちは、まだ本物でないのだ。他人や世間の評価、つまり自分以外の価値を気にするようでは、そのことに真に打ち込んでいるとはいえない。

(後略)(中野孝次著『幸福になるための言葉45』より)

                                         

「まだ本物でない」、その言葉が胸にしみる。中野孝次はさらに天職だけではないと老後のことにまで言及している。

                                             

(次回へつづく)

                                                             

                                                         

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之を楽しむ者に如かず①

中野孝次(作家、故人)は、『論語』の

                                       

子の曰く、

之を知る者は之を好む者に如かず。

之を好む者は之を楽しむ者に如かず。

                                     

を解説して、こう書いている。

                                                                                  

(前略)

わたしはどんな仕事でもそうだろうと思う。人はともかく何かに惚れること、自分が好きな事柄にのめりこみ、打ち込み、探求し、夢中になってそこに深入りするのでなければ、どんなことにでも上達できない。だがそれだけではまだ足らず、自分のすることが好きで、それをやるのが楽しくてならず、それに生涯を捧げ、それを天職とするくらいにまでいかなければ、そのことの第一人者にはなれないのだろう。

(中略)

 天職となるまでにあることが好きになるとは、自分がその中に入って毎日毎日新しい境地を研究し、深入りし、自分の研究以外に何も気にならなくなる。仕事の中での工夫や、新しい試みや、自分だけが知るよろこびや、それがすべてになるということだ。そこに他人の評価の入る余地はない。よろこびや悲しみも、人生のすべてがその中にあり、他は気にならなくなるところまでゆくことだ。そうなって初めて第一流の者になる。

(後略)

(中野孝次著『幸福になるための言葉45』より)

                                              

(次回へつづく)

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March 01, 2009

どろどろを表現したい③(終)

(前回よりの続き)

一方で本の場合は、本の数だけチャンネルがあるととらえられる。書店に行けば、そこが大きな書店であればあるほど無数のチャンネルが書棚に設置されている。だから1つや2つ、あきらかに読む人の心象を害するような真実が描かれていたとしても、テレビのようなアレルギー反応は世間から沸き起こりにくい。

ただベストセラーの類は、それが大きければ大きいほど新聞やテレビなどのマスメディアに頼る比重というものは高くなっているようにもお見受けする。それでも、テレビや新聞そのものよりもまだそのままを描きやすいのかもしれない。

かくて、われわれはまるで無菌室のようなとてもきれいで清潔な社会というものの中に住んでいる。そこでは勿論、お互いのどろどろをなめあうのは愚か、見せあうこともとうぜんのごとくにご法度に近い状態となっている。ほんとうの表現なんてもってのほかかもしれない。ただどうしてもどろどろを出したい人の場が本の世界には昔よりいまだに存在しているように思い過ごしかもしれないがぼくはとらえているのである。

ところで、このブログで書けばいいだろう、げんに書いているのではないかと言う人がいるかもしれない。どうも書いていてブログはどろどろを客観的に表現しにくいメディアのような気がして仕方がないのである。どろどろをただどろどろのまま書くのは表現といいたくはない。それは自分の技術不足と両方あるであろう。(終)

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