« April 2009 | Main | June 2009 »

May 31, 2009

自分が自分であること

一人路上で風に吹かれた

通り過ぎる人々がまぶしい。

なんで、俺は・・・とつぶやきかけて

口をとじる。

自分が自分であることに悩まない。

そう決めたばかりではないか。

| | Comments (0)

May 30, 2009

「働く」とは「志」をもつこと―北尾吉孝氏のコメントを聞いて

北尾吉孝(SBIホールディングス代表取締役執行役員CEO)氏が、さきほどテレビ東京『映画ハゲタカ特番 いま、何のために働くのか』で、コメントを述べられていた。

今、若者たちが働くことに生きがいを得られなくなっているのは、それは企業経営者の責任である。ほんらい「働く」とは「はた(傍)を楽にする」という意味である。それが忘れられている。それは、経営者が「志」を持たなくなったからだ。「志」ではなく「野心」をもつようになったのがいけない。

ざっとこのような内容であった。

「志」とは「野心」と異なるように「夢」とも異なるであろう。「夢」の中には「野心」も「志」も含まれている。「夢」をもつことが大事だということをよく言われるが、「夢をもつこと」そのものが尊いというわけではない。

森信三先生(哲学者・教育者)はこういわれている。

真に独創的なものが生まれるのは、「自分も何かひとつ独創的なものを生み出してやろう」などという野心からではなく、こうした難問題と取り組むには、自分などはその資格はないけれど、しかし自分より資質の卓れた人々がたれ一人これと取り組まない以上、自分みたいな者でもやる他あるまい―と考えて、コツコツと努力し続けてゆくことによって、いつしか独創的なものが、おのずから生まれてくるようです。

つまり真に独創的な仕事は、自己中心的な野心とか名誉心からではなくて、事柄自体に対する価値認識に基づく没頭的な態度の持続と献身とによるようです。

『不尽片言』より

企業経営でいえば、こうして創業者がこれまでにない独創的な分野の企業を創業したとして、その発展と真に社会のためを願うならば、自分よりも他の人に経営を変わってもらった方がいいという状況であるする。そう判断したならば、自分がたとえ平社員になっても“さっさ”と社長の座を譲る。それが「志」というものであろう。

「野心」はもちろん「夢」ということであれば、おそらく自分が創業した会社で経営者としてやりがいをもって働くことがそもそもの「夢」であるのだから、他人に譲るということはしないだろう。人によって「夢」が「志」になっている人もあろうが、たいがいの「夢」はそんなところであろう。

ところが「志」はちがう。そもそも「自分」ではなく「社会のため」「世の中のため」「人のため」―すなわち利他的な動機によるのが「志」である。「自分」はないのである。たまたま「自分」がそれを手がけざるを得なくなっただけだ。

西郷南洲は、一国の政治についてではあるがこう説かれている。

支配者として一国の政治を行なうのは天の道を実践することである。だからそこには少しの私心もあってはならない。

心を公平に配り、正道を踏み、賢人を選んで用い、その役職にふさわしい人物に政治を行なわせるのが天の意というものだ。自分が、これこそ真の賢人と認める人物があったら、ただちに自分の役職を譲るぐらいの心づもりでいなければならない。

高野澄『西郷隆盛』

「第一部 人を相手とせず、天を相手にせよ―西郷南洲遺訓」より

「働く」ということはほんらい「はたを楽にする」こと。すなわち「志」をもつということだ。トップが「志」をもてば、自ずとその下では「志」をもつようになるであろう。北尾吉孝氏のコメントに共感する。

| | Comments (0)

May 27, 2009

人間が自然との距離を縮めるには・・・。

ロケで、ある凶悪な罪を犯した者の家の近くを通り過ぎたのは、もう15年近く前になるだろうか・・・。そのとき、愕然としたのは、自然が豊かだったということだ。その頃から自然回帰への志向は日本人の間に広まっていて、自分も自然信仰じみた、動植物や山、川・・・から離れたからこそ人間はおかしくなってきたのだという信念があった。

ところが、罪を犯した“彼”は豊かな自然の中から生まれていた。これはなんなんだ、どうしたというのだ・・・。そのときから、自分の中に“命題”が出来上がってしまった。ところがあるとき、“彼”は自然の中で生きていたけれど、自然から離れていたのではないか。家の中に閉じこもり、自然より隔離されているのと同じような生活をしていたからこそ、そうなってしまったのかもしれないということに気づく。

多かれ少なかれ現代人は自然より隔離されている。自然豊かな地域でさえそうなのだ。都会に住む者は、完全に自然と隔絶してしまったといっても過言ではない環境に住む者が多い・・・。となると、その離れた自然とどうしたら、また近づくことができるのか。ただ、自然豊かな地域の緑のすぐ側に住めばいいというものではないことは、犯人の“彼”の生活環境を見ればわかる。

あるとき、樹木医の方にインタビューをする機会を得た。都会人が自然と触れるにはただ木々のそばに暮らしているだけではだめで、日々、その木々のうち一本でもいいから“観察”をすることが秘訣だということを教えてくれた。普通は「木を見て森を見ず」で森を見ないことを否定されるが、この場合「森を見て木を見ず」ではだめで「森よりも木を見る」ことが必要というのだ。

ただ、実際その“観察”をやろうとしていまだにできていないのだが、一本でも木に集中する時間を毎日つくるというのは、よほどそれが好きでもなければできないことだというのがわかった。また、やらざるを得ない環境になければやらないのは、痛感していることで、結局はやらざるを得ない環境にいたらなかったのでやらないで今日まで過ぎてしまった。

だから、いつまでも自然との距離は縮まらないのだけれども、あるときほんの数分にして縮まるどころか一体になれたような感覚の瞬間を得た。

 それは、わが家の近くの川沿いの街路樹の下を、散歩した時だ。他の通行人には聞こえないようにこうつぶやきながら歩いていた。「幸せだなあ。豊かだなあ。有り難いなあ」。それを感情を込めても込めなくてもいいので何回も何回も繰り返し言いながら歩いたのである。すると、いつかすーっと体の中に自然の風や緑や花や日の光がからだの中に入ってきたような気がして、ほんとうに気持ちのいい、まるで自分が自然そのものといったような感覚になれたのだ。これはたとえどんなに豊かな自然の中を普通に歩いていても決してなかったことであった。

 これでようやく命題が解けた。自然との距離を縮めるためには、自然の近くに行き物理的距離を縮めることではなく、自然に対して心を開くことこそが大事なのだということを。人間と人間とのコミュニケーションと同じだ。ともに溶け合うには、まずは双方が心を開かねばならない。ただ、人間と自然とのコミュニケーションは人間のみが心をあえて開けばよい。なぜならば、自然はいつでも心を大きく開きっぱなしだからである。

| | Comments (0)

May 25, 2009

「相手に望まない人」になりたいなぁ

ふと思いついたのですが、ほんとうに愛が深い人は相手の人に対して「こうあってほしい」と望まずに、その人の全部を受け入れることができる人なのではないでしょうか。良寛のような深い愛情をもち徳の高い人は、「相手がこうあってほしい」と望まなくても、自然に相手が変化し、その人を幸せにすることができたといいます。なかなか凡人にはできることではありません。

あらゆる人が身近な人に対して「こうあってほしい」と望まないようになれば、どれだけ世の中に“ゆとり”が出てくるか・・・。

上司が部下に対して「もっと仕事の成果をあげてほしい」と望まない。部下は上司に対して「○○のような理想的な上司であったらなあ」と望まない。親は子に対して「もっと勉強をやってほしい」と望まない。子は親に対して「もっと欲しいものを買ってくれたらなあ」と望まない。妻は自分の夫に対して「もっと家事や育児をやってくれればなあ」と望まない。夫は妻に対して「もっと子どものことばかりでなく自分のことにも配慮してほしい」と望まない・・・。

こう具体的に想像してみると「相手に望まない」というのはとても大変です。

「相手に望まない」ためのコツは、まず「自分に望まない」ことなのかもしれませんね。自分を受け入れられなければ他人を受け入れることはできないというのは真理でしょうから。

自分に対して高い要求をつきつけて「望む」なんて生き方をやめて、ただただ「相手の望むこと、相手の喜ぶこと」をしてあげる・・・、そんな生き方ができればなあと今は、思っています。

| | Comments (0)

May 23, 2009

成功するのはいいこと?

ハガキ道で知られる坂田さんが、講演で、「成功者の本を読んでも成功できない。ひとそれぞれ成功の仕方は違うから」といっていました。これはとても励まされます。そして真理ではないかと思います。

坂田さん自身が、仕事ではまるでさえなくて、仕事ではない、趣味といえるかどうかもわからないのですが、ただひたすらハガキを書いて人に送っているうちに中年以降に道が開け、全国的に知られるまでになったのです。成功者の一人といっていいでしょう。

そもそも“成功”という言葉は皆が皆、目指すべき言葉なのでしょうか。別に“成功”するばかりが幸せだとはいえないし、充実した人生だとはいえないと思うのです。

それに、成功というのは、やはり他人から成功者だと評価され認められるからこそ成功者だという要素はぬぐいきれないと思います。

金を得られるか、名声を博すか、地位が上るかそのどれか、またはそのすべてを得た人間のみが成功者といわれているように思います。

中には、人に知られなくても密かに自分の目標を達成することを成功といい、そこに生きがいを感じて生きている人もいるでしょうが、一般的には、社会に知られ評価された人が“成功者”なんだと思います。

つまり、成功の仕方は人によって異うし、生き方や目指すことはさらにもっと多様であるから何も“成功”という言葉にしばられる必要はないのではないかと思います。

| | Comments (0)

お金がないということは地球環境にいいことしているということ?!

本日の、地球村の高木善之さんのメルマガ“一日一善之”は、これでした。

自動車の使用を控えましょう。
自動車は、公共交通の数十倍のCO2を出します。
歩くのと比べると、(呼吸の)数百倍のCO2を出します。
できるだけ徒歩、自転車、公共交通にしようね

自動車に乗らないことは、地球への負荷を減らし、その分歩いたりするから健康にいい。そして家計の節約になります。

いつも思うのですが、地球環境にいいことは健康にいいし、もちろん家計にもやさしい。

逆に、お金があまりなくてお金を使えないということは、地球環境にとってはいいことであるし、お金がないということで凹んで引きこもっているようなことがなければ贅沢ができない分、体にもいいかもしれません。

リストラ、派遣切り、・・・、にあって、経済的に苦境にあえいでいる方々も、とにかく生きて食べてさえいることが可能ならば、お金を使えない分、とても地球環境にいいことをやっているのだと誇りをもってもらいたいです。また自分の健康にもいい影響を与えているのだと自信をもちたいものです。当人にとっては本人にしかわからないつらさがあるでしょうが、事実としてそうなのですから…。

(あいかわらずの経済状況の自分にも言い聞かせているようになりますが・・・)

くれぐれも、健康もすぐれないし、お金もない、自分がいない方が“地球”のためにもいいのではないかと自ら命を絶つようなことがないように。

われわれ一人一人は地球の一部なわけですから、自分を傷つけるということは地球を傷つけることにもなるわけです。

たとえば、足の小指の先一本を切って、「これは小指であって私のからだではない」と言い張っても通用しないのと同じことです。

| | Comments (0)

May 21, 2009

世界平和にはどんな人でも貢献できる

世界平和なんて、こんなちっぽけの自分にゃ、なんも役に立てはせん。と普通は思うわけですが、よくかんがえりゃ、世界とは一人一人のあつまりのこと。一人一人が世界平和の型を行って、みんなが集まればほんとうの世界平和になるわけです。

 かといって、一人一人が世界平和を祈るということもいいのだけど、それだけでなく、周囲の人を受け入れることをやっていくということではないでしょうか。自分と気が合わない人も、好みが合わない人も、自分とぜんぜん別の世界だなと思う人も、今まで嫌いだった人も、イヤだなと思う人も、憎んでいた人も、住んでいる世界が違うな・・・という人も、ぜんぜん納得できないことをやっている人も・・・・、とりあえず受け入れていく。

 だって、あらゆるどんな民族でも、国家でも、宗教でも、人種でも、文明国も発展途上国も未開人でも・・・それぞれの国や民族・・・すべての人が受け入れるのが世界平和でしょう。

 だからたとえ、日本国内にしかいなくて、外国人と接する機会がなくても、とりあえず周囲の日本人のあらゆる人を受け入れられるようになっておけば、環境が変わっていろいろな外国人と接するようになっても、その人は必ずその周囲の外国の人たちもいずれは受け入れられるようになるはずです。

 とはいっても、「受け入れる」というのはそう簡単ではないというのは、自分を省みてもわかるわけです。まずは、だから「こんな自分でも世界平和のために役立てるんだ」ということをわかって、周囲の人を受け入れることを少しずつでもやっていく。たとえば、自分の意見とぜんぜん異う意見を言う人がいたとしても、自分の意見を押し出さずに相手の意見をとりあえず聞いてあげる、というだけでも、それが今までしてこなかった人であれば、ほんのわずかではありますが、世界平和に近づいたということでもあるわけです。

 まず自己主張するとか、自分の意見を押し通すとか、他人より抜きん出るとか、そういった今まで「やれ!」と脅迫されるようにいわれてきたような価値観が、ぜんぜんいいことではないこと、まずはまわりと仲良くやっていくことの方が尊いのだよということを自分に言い聞かせることから始めるといいのかもしれませんね。

| | Comments (0)

May 20, 2009

どうしたら皆に喜んでもらえるか・・・

すばらしい文を見つけました。

日本で商売をするときに、どうやって儲けるかということばかりを考えてやると、その問いが間違っているために、結果が出ない。

 だけど、どうしたら皆に喜んでもらえるか、と考えるとすべて結果・答えが出てくる。人に喜ばれることをやっていると、仕事も人間関係も間違いなくうまくいくのが、日本という国なんですね。

『神さまが教えてくれた幸福論』より小林正観さんのことば

ほんとうにそうなんでしょうね。

| | Comments (0)

May 18, 2009

このままでは共存共栄しようと思ってもできなくなってしまう

共存共栄ということを言われて久しいが、ほんとうの共存共栄とは似たような人たちが仲良くすることではなく、まったく異なった人たちがそれでも仲良くみんなでやっていくということであろう。

 さまざなま民族、宗教、文化があって、それでも仲良くしていくのが共存共栄だ。宗教もいろいろあった方がいいと思うし、宗教なんてなくてもいい。ぼくも信仰があるけれど、他の人に同じ信仰を無理にさせようとも思わない。自分の子どもには教えてもそれは教育方針としてやっているだけで、物心付き、大人になってやめたくなったならやめればいいし、自分の価値基準をもてる大人になってほしい。

 多様であるから共存共栄できるのであって、ビジネススーツ一色の世界に共存共栄もなにもない。それぞれの民族衣装で仕事や生活をしつつ、争うことなくみんな仲良くやっている、そんな世界にあこがれる。

| | Comments (0)

May 12, 2009

思索はエネルギーになる。

思索はエネルギーになる。
ただ、何も考えずに行動するより、ある思考、思想をもって行動した方が強い力がでる。
行動からエネルギーが発散する。
だからこそ、思想というものは必要なのだ。

| | Comments (0)

小沢党首辞任は非常に残念

本日(11日)、辞任の記者会見を行ったが、小沢氏が党首でなくなって万が一にでも、民主党が政権を取れたとしても、日本を変えることはできないという見方に同意する。

 今朝の朝日新聞「声」に、「官僚支配を政治主導の官僚組織に抜本的に変えるには、強固な国家観を持つリーダーでなければ達成できまい。それも幾多の修羅場を経験した小沢代表のような豪腕でないと、政権与党や官僚の手練手管に対抗出来まいと思う」とあったが、まったくそうである。

 このまま自公政権が続くにしても、小沢党首なき民主党が政権を奪取したとしても前の記事にも記入した、本来政治が行うべき <1> 格差の是正、 <2> 福祉、環境、食糧の自給自足 からはどんどんかけ離れていくであろう。

 記者会見を行ってしまったが、辞任撤回はもう無理なのであろうか。無理だとして、日本を根本から変える力のない小沢なき民主党には興味ない。しかし、家もない人々が夜空の下で大勢寝ている状況を思えば、なんとかしなければならないと、何も力のない自分だけれど切実な思いにならざるを得ない。

 ともかく口先だけうまいことを言って、弱者をふみつけにしているような政治家や政党、官僚を決して許してはならないし、選出してはならないのだ。

| | Comments (0)

May 10, 2009

忌野清志郎さんの「棺を蔽いて事定まる」

9日に忌野清志郎さんの「葬儀式」があったそうだが、亡くなられてはじめて人柄の一面をテレビで知った。
  葬儀の場であれほど友人に号泣される人間はどれくらいいるだろう。よほど人を包み込むような温かい人柄であったのだ。反骨精神はまだ想像つくにしても思いもよらないことであった。歌さえも意識して初めから終わりまで聞いたことはなかった。

おそらく自分は、彼のド派手な衣装や独特の歌声にとらわれていたのだ。

「棺(かん)を蔽(おお)いて事定まる」とは、亡くなってようやく肩書きや見た目など余計なものがすべて取っ払われるということだろうか。

棺桶におおわれてようやく、その人のあるがまま裸の姿が見え始めてくるというのはとても残念なことである。もっと人間を学びたい。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

リンク: 忌野清志郎さん「葬儀式」 ファン4万人以上が参列 - 速報:@niftyニュース.

| | Comments (0)

May 09, 2009

豚インフルエンザになってほしいの?

                                                                               

免疫力をもっとも下げる心の状態をご存知だろうか。

恐怖心こそが自己の免疫機能を破壊し、免疫力を下げるという。こうして免疫の機能が下がった体はさまざまな感染症にもかかりやすくなる。

WHOを発信源に、連日のように、豚インフルエンザについて世界中の人々の恐怖心をあおるような報道がなされている。

注意を喚起しているのだろうが、「あなたたちは、人々が豚インフルエンザになってほしくないの?それとも、なってほしいの?」と聞きたくなる。

豚インフルエンザの情報などまったく知らない人の方が感染しにくいし、感染しても軽症ですむのではないだろうか・・・。

もう恐怖心という「菌のエサ」をまくのはやめていただきたい。





船井幸雄の本物商品が自然育児&子育てを応援!

| | Comments (0)

May 08, 2009

100年に一度の危機は危機ではない!?

100年に一度の経済危機、世界大恐慌、・・・とあおられっ放しで、お先真っ暗としかいえないような昨今の状況であるが、以下のような見方もあるものだと少しほっとさせられるとともに、じぶんの勉強不足を恥じた。

★「100年に一度の危機」ですか?

この50年で日本のGDPは50倍に伸び、「生活に必要なものは十分に足りている」と言われた1980年以降、本当に必要だったのは、

<1> 格差の是正、 <2> 福祉、環境、食糧の自給自足

でしたが、実際には進む方向を真逆に間違えました。

巨額の公共投資、消費の拡大、貿易依存の結果、格差の拡大、過疎と過密、資源とエネルギーの枯渇、環境破壊、食糧自給率の低下を招きました。

GDPが1980年の2倍になった現在、GDPが10%下がろうが、20%下がろうが本当は何も困りません。給料が半分になっても、物価も半分になるのなら、むしろGDPが半分になった方が問題点が解消するでしょう

20095月『地球村通信』より 傍線は筆者)

傍線部分の根拠はどういうところからきているのか知りたいが、おそらく正しい見解であろう。世界的な大不況で困るのは、ビジネスや経済社会であって、地球や自然環境、生命という視点からはむしろ歓迎すべきことなのかもしれない。

| | Comments (0)

May 07, 2009

竹内まりや―50代、ますます魅力・・・

NHKで竹内まりやの『人生の扉』を聞いた。

満開の桜や色づく山の紅葉を

この先いったい何度見ることになるだろう

ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ

ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

            竹内まりや 作詞/作曲『人生の扉』より

“アラフォー”がらみで接している天海祐希は、竹内まりやのことを少女の部分と大人の部分が絶妙に溶け合っている素敵な女性といっていたが、歌にもそれが表れている。

歌声には、『september』を歌っていた頃のような弾むような魅力がいまだに失われていないが、若い頃にはもち得ない人をあたたかく包み込むような深さを感じられる。

歌う竹内まりやを見て、また『人生の扉』を聞いて、「年を取るのも悪くないな」と思えた。

| | Comments (0)

May 06, 2009

村上は龍も和雄も…~時には自分を追い詰めよう~

                                        

  村上龍著『無趣味のすすめ』が大反響で、9万部を突破しているらしい。

 「真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」―広告で、本文よりの一部抜粋を読んだにすぎないが、この部分に共感をした。

 

コスト面でいえば、バイオテクノロジーの第一人者、村上和雄教授は、「身銭を切らないと本当のプロにはなれない」と書いている(『生命の暗号』より)。

 

隠された能力を発揮し、より生きがいを感じるためにも自分を追い詰めることが大事であり、それにはお金や生活がかかってくるとやりやすいかもしれない。だから、自分を追い詰めるには趣味では不十分で、やはり仕事が一番なのだろう。

| | Comments (0)

May 04, 2009

ぼくという日々があるだけでいいはず

なんということもない日々の暮らしの中に、

この上ない喜びや感動を得られたら、

これほどに強いものはないだろう。

日日是れ好日(にちにちこれこうにち)

〔解説〕

毎日がめでたい。日常性のマンネリズムを突き破る感動。

    岩波文庫『碧巌録』第六則 雲門十五日 より

ぼくたちはぼくたちで、もう十分なのだ。

この世の中でいちばんすばらしいことは、ただ平生(へいぜい)の生活のうちにある。百丈は百丈、永平は永平、その生き方は異なるにしても。(※筆者注 百丈は百丈懐海―749814という中国の昔の高僧のこと。永平は道元のこと)

 講談社学術文庫『道元禅師語録』「70 僧、百丈に問う」の〔付記〕より

もうこれ以上はいらない。

ほんとうは・・・。

| | Comments (0)

May 03, 2009

齢四十にして惑ってばかり

論語に「四十にして惑わず」とある。

40歳を「不惑」の年ということの語源であるが、ぼくの場合は40代になってむしろ惑いに惑っているといった方がいい。

ここのところの「惑い」は神様の力であるのかなんだか分らないけれど不思議な力があって、それに沿っていくと運がよくなったり、それに沿わないよりも道が少しずつ開けるということがある。

すべて気のせいのような気もするが、やらないとやったときのような結果がだんだんと出なくなっていくことはたしかにあるようだ。だから離れることができない。

ただ、その不思議な力に沿って生きるのがほんとうに正しいことなのだろうか。たとえば、その生き方が自分の好みに合わないということもある。自分の好き嫌い―好みを飛ばしてでも、運がよくなる、道が開けるからということでそれに従うのはいいことなのだろうか。それはパトロンがどんな人間であろうとも、スポンサーであるということでそのパトロンにすり寄って生きるということと代わりはないのではないかという疑念が浮かぶ。

 

たとえ、成功してもしなくても、生きているうちにちっとも業績を上げられず、誰からも評価されなくても、自分に忠実に、自らの信念に沿って生きる方が正しい生き方ではないか。いや、自分が求めている生き方であったのではないか。少なくともそういう生き方を獲得しようとしてここ数年はもがいてきた。ところが、ここ1ヶ月ほどの変化によって、また別の波に乗せられているような気がしている。

 家族とともに生活をしていかなければならないので、なおさら金銭的な結果も出やすい方へと身をゆだねることになる。 

わからない。どう考えてもわからない。そんな事、考えずに波にのっていけばいいではないかという人がきっと多いだろうが、素直にそれをやると物足りなさ、むなしさすら感じてしまうのが「惑い」の原因でもある。多くの人と同様、まあ、とりあえず前に進むしかないのであるが。

| | Comments (0)

May 02, 2009

世界的流行の前にパンデミックという言葉ありき

豚インフルエンザがWHOによってフェーズ5と指定され、“パンデミック”という言葉がにわかに脚光を浴びてきた。フェーズ5となり、パンデミック直前、パンデミックの一歩手前という使われ方をしている。

パンデミックとは「世界的流行」という意味であり、日本語に訳すと「感染爆発」となるらしい。現在、全世界で確認された豚インフルエンザの感染者が500人くらいと聞いているが、その程度の人数で「感染爆発」寸前や「世界的流行」直前といってもいいものかどうか。どうも違和感を覚える。

豚インフルエンザが世界的流行となる前に、まず豚インフルエンザやパンデミックという言葉が世界的流行となるような勢いだ。おそらく、気が早いのだが、今年の流行語大賞の1つに「豚インフルエンザ」はもちろん「パンデミック」も選ばれることが予測できる。

今後、豚インフルエンザのパンデミック(世界的流行)は免れないとしても、世界的な蔓延の前に、終始“言葉”が先行していたということは記憶していてもよいことであろう。なぜなら、「はじめに言葉ありき」と聖書にあるように、全世界の人々の観念を言葉によって形成することで、ほんとうの流行というものが、もたらされる可能性も大いにありうると考えるから。

| | Comments (0)

May 01, 2009

生涯、在野の文人を貫き通した三宅雪嶺

三宅雪嶺に関して一枚の写真があるそうです。東京大学総理謝恩会時における記念写真なのに青年、三宅雄二郎(のちの雪嶺)は、教授、学生たちから離れ、一人超然として木に登っているのだそうです。

それに対して、伝記作家の小島直記はこう書いています。

若者らしい茶目っ気の現われでしょう。しかし東大出身者らしい体制派エリートとしての道を自ら選択せず、官権、顕職を拒否して生涯無冠、在野の文人として生き抜いた異端の姿勢が、はからずもここに象徴されているように思われます。(※傍線は筆者)

明治時代、多くが官僚になって立身出世を目指す文明開化の時代です。にもかかわらず、東京大学ではたった一人の哲学科学生として、図書館に通って和漢書や仏書をむさぼるように濫読したといいます。

小島直記はまた、こうも書いています。

(前略)官僚になるのがいやで政治理財専攻をしなかったというだけであって、政治そのものへの関心がなかったということではない。在野の立場で政治を論ずる言論人、それが彼の人生を貫く一本の太い路線であった。そこに雪嶺の「立志」の特色があったのです。

(※傍線は筆者)

こうして若い時代に立てた志を生涯貫き通しました。これだけ読んでも、三宅雪嶺はじつに魅力的な人物です。雪嶺の代表的著作『同時代史』にいつかはチャレンジしてみたい、ますますそう思います。

| | Comments (0)

« April 2009 | Main | June 2009 »