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May 27, 2009

人間が自然との距離を縮めるには・・・。

ロケで、ある凶悪な罪を犯した者の家の近くを通り過ぎたのは、もう15年近く前になるだろうか・・・。そのとき、愕然としたのは、自然が豊かだったということだ。その頃から自然回帰への志向は日本人の間に広まっていて、自分も自然信仰じみた、動植物や山、川・・・から離れたからこそ人間はおかしくなってきたのだという信念があった。

ところが、罪を犯した“彼”は豊かな自然の中から生まれていた。これはなんなんだ、どうしたというのだ・・・。そのときから、自分の中に“命題”が出来上がってしまった。ところがあるとき、“彼”は自然の中で生きていたけれど、自然から離れていたのではないか。家の中に閉じこもり、自然より隔離されているのと同じような生活をしていたからこそ、そうなってしまったのかもしれないということに気づく。

多かれ少なかれ現代人は自然より隔離されている。自然豊かな地域でさえそうなのだ。都会に住む者は、完全に自然と隔絶してしまったといっても過言ではない環境に住む者が多い・・・。となると、その離れた自然とどうしたら、また近づくことができるのか。ただ、自然豊かな地域の緑のすぐ側に住めばいいというものではないことは、犯人の“彼”の生活環境を見ればわかる。

あるとき、樹木医の方にインタビューをする機会を得た。都会人が自然と触れるにはただ木々のそばに暮らしているだけではだめで、日々、その木々のうち一本でもいいから“観察”をすることが秘訣だということを教えてくれた。普通は「木を見て森を見ず」で森を見ないことを否定されるが、この場合「森を見て木を見ず」ではだめで「森よりも木を見る」ことが必要というのだ。

ただ、実際その“観察”をやろうとしていまだにできていないのだが、一本でも木に集中する時間を毎日つくるというのは、よほどそれが好きでもなければできないことだというのがわかった。また、やらざるを得ない環境になければやらないのは、痛感していることで、結局はやらざるを得ない環境にいたらなかったのでやらないで今日まで過ぎてしまった。

だから、いつまでも自然との距離は縮まらないのだけれども、あるときほんの数分にして縮まるどころか一体になれたような感覚の瞬間を得た。

 それは、わが家の近くの川沿いの街路樹の下を、散歩した時だ。他の通行人には聞こえないようにこうつぶやきながら歩いていた。「幸せだなあ。豊かだなあ。有り難いなあ」。それを感情を込めても込めなくてもいいので何回も何回も繰り返し言いながら歩いたのである。すると、いつかすーっと体の中に自然の風や緑や花や日の光がからだの中に入ってきたような気がして、ほんとうに気持ちのいい、まるで自分が自然そのものといったような感覚になれたのだ。これはたとえどんなに豊かな自然の中を普通に歩いていても決してなかったことであった。

 これでようやく命題が解けた。自然との距離を縮めるためには、自然の近くに行き物理的距離を縮めることではなく、自然に対して心を開くことこそが大事なのだということを。人間と人間とのコミュニケーションと同じだ。ともに溶け合うには、まずは双方が心を開かねばならない。ただ、人間と自然とのコミュニケーションは人間のみが心をあえて開けばよい。なぜならば、自然はいつでも心を大きく開きっぱなしだからである。

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