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May 30, 2009

「働く」とは「志」をもつこと―北尾吉孝氏のコメントを聞いて

北尾吉孝(SBIホールディングス代表取締役執行役員CEO)氏が、さきほどテレビ東京『映画ハゲタカ特番 いま、何のために働くのか』で、コメントを述べられていた。

今、若者たちが働くことに生きがいを得られなくなっているのは、それは企業経営者の責任である。ほんらい「働く」とは「はた(傍)を楽にする」という意味である。それが忘れられている。それは、経営者が「志」を持たなくなったからだ。「志」ではなく「野心」をもつようになったのがいけない。

ざっとこのような内容であった。

「志」とは「野心」と異なるように「夢」とも異なるであろう。「夢」の中には「野心」も「志」も含まれている。「夢」をもつことが大事だということをよく言われるが、「夢をもつこと」そのものが尊いというわけではない。

森信三先生(哲学者・教育者)はこういわれている。

真に独創的なものが生まれるのは、「自分も何かひとつ独創的なものを生み出してやろう」などという野心からではなく、こうした難問題と取り組むには、自分などはその資格はないけれど、しかし自分より資質の卓れた人々がたれ一人これと取り組まない以上、自分みたいな者でもやる他あるまい―と考えて、コツコツと努力し続けてゆくことによって、いつしか独創的なものが、おのずから生まれてくるようです。

つまり真に独創的な仕事は、自己中心的な野心とか名誉心からではなくて、事柄自体に対する価値認識に基づく没頭的な態度の持続と献身とによるようです。

『不尽片言』より

企業経営でいえば、こうして創業者がこれまでにない独創的な分野の企業を創業したとして、その発展と真に社会のためを願うならば、自分よりも他の人に経営を変わってもらった方がいいという状況であるする。そう判断したならば、自分がたとえ平社員になっても“さっさ”と社長の座を譲る。それが「志」というものであろう。

「野心」はもちろん「夢」ということであれば、おそらく自分が創業した会社で経営者としてやりがいをもって働くことがそもそもの「夢」であるのだから、他人に譲るということはしないだろう。人によって「夢」が「志」になっている人もあろうが、たいがいの「夢」はそんなところであろう。

ところが「志」はちがう。そもそも「自分」ではなく「社会のため」「世の中のため」「人のため」―すなわち利他的な動機によるのが「志」である。「自分」はないのである。たまたま「自分」がそれを手がけざるを得なくなっただけだ。

西郷南洲は、一国の政治についてではあるがこう説かれている。

支配者として一国の政治を行なうのは天の道を実践することである。だからそこには少しの私心もあってはならない。

心を公平に配り、正道を踏み、賢人を選んで用い、その役職にふさわしい人物に政治を行なわせるのが天の意というものだ。自分が、これこそ真の賢人と認める人物があったら、ただちに自分の役職を譲るぐらいの心づもりでいなければならない。

高野澄『西郷隆盛』

「第一部 人を相手とせず、天を相手にせよ―西郷南洲遺訓」より

「働く」ということはほんらい「はたを楽にする」こと。すなわち「志」をもつということだ。トップが「志」をもてば、自ずとその下では「志」をもつようになるであろう。北尾吉孝氏のコメントに共感する。

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