齢四十にして惑ってばかり
論語に「四十にして惑わず」とある。
40歳を「不惑」の年ということの語源であるが、ぼくの場合は40代になってむしろ惑いに惑っているといった方がいい。
ここのところの「惑い」は神様の力であるのかなんだか分らないけれど不思議な力があって、それに沿っていくと運がよくなったり、それに沿わないよりも道が少しずつ開けるということがある。
すべて気のせいのような気もするが、やらないとやったときのような結果がだんだんと出なくなっていくことはたしかにあるようだ。だから離れることができない。
ただ、その不思議な力に沿って生きるのがほんとうに正しいことなのだろうか。たとえば、その生き方が自分の好みに合わないということもある。自分の好き嫌い―好みを飛ばしてでも、運がよくなる、道が開けるからということでそれに従うのはいいことなのだろうか。それはパトロンがどんな人間であろうとも、スポンサーであるということでそのパトロンにすり寄って生きるということと代わりはないのではないかという疑念が浮かぶ。
たとえ、成功してもしなくても、生きているうちにちっとも業績を上げられず、誰からも評価されなくても、自分に忠実に、自らの信念に沿って生きる方が正しい生き方ではないか。いや、自分が求めている生き方であったのではないか。少なくともそういう生き方を獲得しようとしてここ数年はもがいてきた。ところが、ここ1ヶ月ほどの変化によって、また別の波に乗せられているような気がしている。
家族とともに生活をしていかなければならないので、なおさら金銭的な結果も出やすい方へと身をゆだねることになる。
わからない。どう考えてもわからない。そんな事、考えずに波にのっていけばいいではないかという人がきっと多いだろうが、素直にそれをやると物足りなさ、むなしさすら感じてしまうのが「惑い」の原因でもある。多くの人と同様、まあ、とりあえず前に進むしかないのであるが。
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