志少しも退かず~沢庵(6)
紀野一義『私の歎異抄』には
親鸞が「ただ念仏した」ことをあげて、
(前略)
要するに「ただ称える」のである。
誰かのためにするとか、人類のためにするとか、
そういうめんどうくさいものではない。
ただ親切にする。
ただ愛する。
風が吹くようにただただ行くのである。
もっとも、このただ称えるというのは、
うしろにもう1つある。
ただやりさえすればいいというのではない。
やらずにおれぬということがかくれている。
これが「ただ」の恐ろしさである。
背後からその者に行なわしめるものがいる。
促すものといってもよい。
新設にせずにはおれないから親切にする。
愛さずにはおれないから愛する。
どういうことがあっても止まらぬ力、
誰が止めても止まらぬ力、
どんなになってもせずにはおれない力が、
背後からいやおうなしに迫ってくる。
その時に「ただ」という世界が始まる。
(後略) (つづく)
いのちのちから
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