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October 30, 2009

志少しも退かず~沢庵(6)

紀野一義『私の歎異抄』には

親鸞が「ただ念仏した」ことをあげて、

(前略)

要するに「ただ称える」のである。

誰かのためにするとか、人類のためにするとか、

そういうめんどうくさいものではない。

ただ親切にする。

ただ愛する。

風が吹くようにただただ行くのである。

もっとも、このただ称えるというのは、

うしろにもう1つある。

ただやりさえすればいいというのではない。

やらずにおれぬということがかくれている。

これが「ただ」の恐ろしさである。

背後からその者に行なわしめるものがいる。

促すものといってもよい。

新設にせずにはおれないから親切にする。

愛さずにはおれないから愛する。

どういうことがあっても止まらぬ力、

誰が止めても止まらぬ力、

どんなになってもせずにはおれない力が、

背後からいやおうなしに迫ってくる。

その時に「ただ」という世界が始まる。

(後略)   (つづく)

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October 28, 2009

志少しも退かず~沢庵(5)

『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本には、

こうあります。

アメリカ大陸を発見したコロンブスのことを書いて

昨日の夢は今日の現実にほかならぬことを信じ、

且つ知るところにわたしどもは来つつありはしないでしょうか。

ひとかどの事を成し遂げた人で夢想家呼ばわりをされなかった

者がいるでしょうか。

事実、彼のヴィジョンは只の夢でしかなかったろうか。

夢とは、実は、偉大なる普遍心、即ち神によって

植えつけられ、やがて現として提示された

神の理念ではなかったか

(中略)

神が一切を通じて現われ給う行き方はこんな風ではないでしょうか。

(後略)

           ※傍線は筆者

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、

人間の中に神があって、だからこそ

人間の力は無限であると言っているのですが、

それは、やはり他力と同じ事を言っているのだと

私は思います。

「志や夢とは、神様に植えつけられるもの」

なのです。(つづく)

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October 27, 2009

体調の悪い時は“一点”にしぼるチャンス

ここのところ体調がよくない。

10月末現在)

ゼンソクは不本意ながらクスリで

おさえているのだが、

コントロールがききにくくなっている。

発作が少しでも起きていると

出来ることが制限されるのが

残念である・・・。

しかし、ふと思い返してみれば、

体調が悪い時は、

「余計なことを捨て、

自分にとって何が肝腎であるかを

考える」チャンスである。

体調のいいときは、

3つできたことでも

1つしかできない。

だからこそ

1つしかできないそのことで

何をやるべきか、

無理しないでできることを

考えることができる。

そこから導き出された

「これだけしかできないこと」

そして

「これだけはどうしても

やっておきたいこと」の中に、

自分にとって

一番大切な何かが隠されている

かもしれない。

少し跳ぶが、

正岡子規はそもそも政治を志しており、

日清戦争には、従軍記者として

活躍するぐらいの

才能あふれた

精力のある

人間だったという。

その帰り道に、喀血し

結核に気づき、

その後、

病床でも可能な

俳句の道に向かうことになる。

精力家だった子規は、

もしも病でなかったら、

俳句という一点に

人生を集中させることは

なかったのではないか。

政治や文学、

さまざまな方向に

エネルギーが分散され、

彼の俳句が後世に残したほどの

業績は上げられなかったかもしれない。

尊敬する哲学者・教育者、森信三先生の言葉に

こういうものがある。

人間の生き方に何処かすさまじい趣が

なくてはならぬ。

一点に凝集して、

まるで目つぶしでも喰らわすような

趣がなくてはならぬ。

人を教育するよりも、

まず自分自身が、

この二度とない人生を

如何に生きるかが先決問題で、

教育というのは、

いわばそのおこぼれに過ぎない。

不尽叢書『森信三先生 一日一言』

正岡子規はまさに、

「一点に凝集して目つぶしを喰らわす」

ような生き方をした男だった。

才能ある正岡子規のような

人間ばかりではない。

凡庸な人間だからこそ

捨てるべきものは捨て、

大切なことだけに

持てる力を発揮する

ことは、人生のどこかで

必ず選択すべきときがくるであろう。

体調が悪い、

病である、・・・ときは、

人生にとって

不必要なもの捨て、

大切な一点へと向かっていく

分岐点であると考え、

自分を見つめたいものである。

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October 26, 2009

志少しも退かず~沢庵(4)

佐藤一斎(江戸時代の偉い儒者)は、

“本心”という言葉を使ってこう書いている。

学は立志より要なるはなし。

而して立志も亦之れを強うるにあらず。

ただ本心の好むところに従うのみ。

〔訳文〕

学問をするには、志を立てて、心を奮い立たせて向かうより

肝要なことはない。

でも、立志もこれを強制するものではない。

ただ、自分の本心の好むところに従うだけだ。

「本心の好むところに従うのみ」。

この“本心”というものは、

自分でコントロールできるものであろうか。

たとえば甘い物より辛い物の方が

好きになった方が健康にいいと聞いたからといって、

そう簡単に変えられるものではないだろう。(つづく)

                                                                                                                                                      

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人格を高める健康法を選ぶ

自分なりの健康法を選ぶとき

同時に、人格を高めうるものを

選択すべきである。

なぜなら、そもそも病というものは

カルマを断つためにあるのだ。

カルマの根源は魂すなわち人間性にある。

だから健康法の何を選ぶかとともに、

どのように行なうか、

どういう想念で行なうかが

肝心になってくる。

たとえば呼吸法を行なうにしても

発端は身体のためであっても、

それによって同時に

人格を高めようと思えば、

どんな呼吸法をやるといいのか、

どのような気持ちでやるといいのか

自ずと決まってくるはずだ。

とすると、健康になるために

始めたとしても、

想いは魂の向上、人格の陶冶だけに

絞っていればよい

結果として、

健康も、病の治癒もついてくる

ということになるのではなかろうか。

ただ一番、

根底に持っていなければならない

想念は、なんでもそうであろうが、

自分の健康法を自分で選んでいるのではなく、

選ばされているということだ。

「自分でしている」のではなく

「させてもらっている」。

-事実であるのだから仕方がない。

そこに気づけば、

自ずと感謝の念がわいてくる。

また、ほんとうには気づいていなくても

たとえ強引にでも

感謝を習慣化することだ。

それこそが、

健康、そして人格向上への

確固とした土台となるであろう。

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October 23, 2009

「沈静」への呼吸からのアプローチ

呂新吾の『呻吟語』は

「深沈厚重」を目指す学問といっても

いいのだろうが、

その中で「沈静」という言葉も

たびたび出てくる。

ところで

先日、ヒマラヤで呼吸法を

習得した方のところに行って学んだ。

呼吸は吐くのが大事。

「ゆっくり 長く 静かに 深く 気持ちよく」。

今日、気づいたのが

この呼吸を四六時中

意識しなくともできるようになれば

すなわち「沈静」なる人格に

かなり近づけるのではないだろうか。

忘れないうちにノートしておく。

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志少しも退かず~沢庵(3)

志や夢を遂げるには、

-※私は志と夢と違うと思うのですが、

ここでは区別しないでおきます-

「子を失いたる親のごとく」

その志や夢のことを思うことが大事である。

沢庵の場合、仏の道をさしているのだろうが、

他のことでも同じであり、

また成功者の書いた本などいろいろなところで

「寝ても覚めてもそのことを思う」

ことの大切さは書かれている。

ただ、そもそも、志や夢というものは、

持とうと思って持てるものではないのではないか。

自力と他力でいえば、

他力の領域に入るものであろうと私は考えている。

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志少しも退かず~沢庵 (2)

専門のピアニストやヴァイオリニストは、

年がら年中、一日に十数時間の練習をしなくては

専門家として立ってゆけないという。

子を失いたる親のごとく、

そのことばかりかんがえつづけて、

はじめてそこに到るのであるという。

  こうして成就する心を禅師(※筆者中―沢庵禅師)は

太阿の名剣といった。

                       紀野一義『名僧列伝(一)』より

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October 21, 2009

志少しも退かず~沢庵 (1)

常の凡夫、信力なくして三年五年に知ることに非ず、

学道の人、十年二十年、十二時中、そつとも怠らず、

大信力を興し、知識に参じて、辛労苦労を顧みず、

子を失ひたる親の如く、立てたる志少しも退かず、

深く思ひ、切に尋ねて、

終に仏見法見も尽き果てたる所に到りて、

自然に之を見ることを得るなり。   沢庵『太阿記』より

                                                                                                                                                            

                                                                                                                                                             

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October 19, 2009

「今ココニ」生きているか?(2)

映画「今を生きる」も

言うなれば「今ココニ」がテーマだった。

ある進学校に赴任してきた

新任の教師が受け持ちの生徒たちに、

自分の心に正直に

「今」を大切に生きることを教える。

お蔭で生徒たちが生き生きと青春時代を

生きるようになる。

ところが、

ある生徒はそれまでと同じように

厳しい親より勉強をすることを強いられ、

ようやく見つけた演劇という生きがいを

奪われ、自殺してしまう。

責任を問われた教師は、学校を去っていく。

しかし、生徒たちの心に芽生えた

希望は消えずに胸の中で燃え続ける・・

大雑把にこんな内容だったと思う。

ところで、自分はうちの子供たちに

「今ココニ」を大切にして生きさせているだろうか。

「おまえの将来のためだ」といって

無理矢理、勉強させたり、習い事をさせたり

して、子どものたちの「今ココニ」を

奪っていないだろうか・・・。

子どもに「今ココニ」を生きさせるためには

親がまず「今ココニ」生きなければならない。

子どもの「今ココニ」を大切にして親は生きることは

できないが

自分自身の「今ココニ」を大切にすることはできる。

こうして、自ら示す以外は、

子どもたちを導く手立てはないだろう。

そして、もっとも確実な方法であると思うのだ。

                                         

                                         

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October 16, 2009

頭山満 独りでいても・・・(6)

先に紹介した詩人タゴールは、頭山満をこう評している。

ボース氏(インドの革命家)に語って曰く

前回日本に来た時と違って、

今度は真の日本人に接したことを喜ぶ。

頭山満氏に対する余の印象は、

印度古代のリシー(聖人の意、漢字で律師と書くことあり)

を目の前に見るやうな感じである。

詩聖ともでいわれ、ノーベル文学賞を得た

思想家であるタゴールは、

「古代インドの聖人のよう」と

頭山満を評したことを、

われわれ後世の日本人は深く心にとめるべきだ。

そして、

頭山の

「独りでいても淋しくない人間になれ」

タゴールが自分の詩にも取り入れたと思われる

『スッタニパータ』の

                                        

「犀の角のようにただ独り歩め」

                                       

と不思議な一致をしているのは面白いと思う。

                                                                       

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October 14, 2009

「今ココニ」生きているか?(1)

「将来偉くなろうと思って『今を犠牲にして生きる』のは本当の生き方ではない。

たまたまチャンネルをつけたら

NHK「あの人に会いたい」、中野孝次だった。

熱いものがこみ上げてくる。

2004年に亡くなられた作家である。

その死を知った時は、少し大げさかもしれないが、

呆然自失といった言葉に近い

心の状態となった。

それまでずっと中野孝次の著作にある言葉に

励まされて生きてきたからだ。

今でもそうであるが・・・。

上にあげた言葉は、番組の終了間際に中野が

言っていたものである。

そして、続けて次の文字が書かれた

色紙を見せてくれた。

「今ココニ」を生きる、それが生のすべてだ。 中野孝次

なんども、著作で読んだ言葉である。

でも、あらためて見せられて、心を洗われるような

思いとなった。

自分はほんとうに「今ココニ」を大切にして生きているだろうか。

将来の夢―志というものに引きずられて

生きていないか。

「今ココニ」を大切にするための「志」がほんとうの「志」と

以前、気づいたことをもう忘れていないか・・・。(つづく)

                                        

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October 13, 2009

真剣

自分が生きることに真剣でないと嘆くより

今、真剣にしようとつとめることだ。

そうすれば、必ずいつか真剣な人間になれる。

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October 12, 2009

頭山満 独りでいても・・・(5)

またここで冒頭から紹介している頭山満の言葉、

その最後のしめをあげます。

独りで居ても淋しくない人間になれ。

子供の時からこの考えでいたが、今でもそうぢゃ。

世間には、自分が浪人者だから、

不遇ぢゃの、気の毒ぢゃのといふ者が

あるやうぢゃが、自分は何とも思はん。

不満も不平もない。

日本といふ結構な国に生れたことが何より

有難い。

ただ開闢以来、祖先から受けた大恩を如何にして

報ゆるか、それを只管考へるだけだ。

その為には励積あるのみぢゃ。

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October 09, 2009

頭山満 独りでいても・・・(4)

『言志録』にもこうある。

士は当に己に在る者を恃むべし。

動天驚地極大の事業も、

亦すべて一己より締造す。 

〔訳文〕

およそ、大丈夫たるものは、自分自身にある者を

たのむべきで、

他人の智慧や財力、権力などをたのみにしてはなにが

できようか。

天を動かし、地を驚かすような大事業も、

すべて、己一個より造り出されるものである。

             (川上正光全訳注『言志録』より)

士は独立自信を貴ぶ。

熱に依り炎に附くの念起すべからず。

                                                                        

〔訳文〕

丈夫たるものは、他に頼らず、一人立って、

自信をもって行動することを貴ぶ。

権力ある者にこびたり、

富貴の者に付き従うような考えを起こしてはいけない。

         (川上正光全訳注『言志録』より)

                                                                                                                                                                  

“一人”=“独り”がいかに尊いことか・・・。

すべては一人から始まるのだ。

一人が淋しくて群れをなして、

そこから外れたくなくて悪い事をする。

なんて、情けないのだろう。

                                                                                  

                                                                                                                                                                               

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October 07, 2009

頭山満 独りでいても・・・(3)

インドの詩人タゴールが作詞した

『エコラ・チャロ(独り歩め)』の歌詞の意味、

他人がどうであれ、断固として独り歩め

その心は、頭山満の言葉にそっくりではないか。

冒頭に掲げた言の続きである。

笑ふ奴は笑わせて置けばよい。

佐久間象山は

「嗤ふ者汝の嗤ふに委す。謗る者汝の謗るに委す。天光我を知る。他人の知るを求めず」

というてをる。強いて知己を人間に求めようと思っていない。

天地を相手としてをればそれでよい。

自分一人を多数と思うてをる。

独りで居ても淋しくない人間でなくてはならん。

自分は絶対の魂は人後に落ちんが、

学者でもなければ能者でもない。

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October 06, 2009

神よ

神よ

今、誰よりも苦しみ、

悲しんでいる人々に

光をあたえたまえ。

そして、私にその力を

分け与えたまえ。

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October 05, 2009

頭山満 独りでいても・・・(2)

古代インド、パーリ語の仏教経典「スッタニパータ」には、

こうある。

eco charo khagga visana kappo

(エコ・チャロ・カガ・ビサナ・カッポ)

独り歩め、犀の角のように。

仏教学者の中村元は「ブッタのことば」でこう訳している。

犀の角のようにただ独り歩め

ブッタ時代の話し言葉に近いパーリ語と現代ベンガリー語は

似ているそうだ。

(以上、「スッタニパータ」の部分は

朝日新聞2003.7.19 be より転載。以下同様)

ベンガル出身の詩人タゴールが作詞した

『エコラ・チャロ(独り歩め)』

という歌が

インドの独立記念日などによく歌われるそうだ。

その歌詞の意味は、

他人がどうであれ、断固として独り歩め

歌の中では「エコラ・チャロ」が5回以上も反復されるそうだ。

                                                                                                                                                                

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October 04, 2009

浅はかで軽薄な自分・・・

只だ軽薄の心を脱し尽せば、便ち天徳に達す可し。

                 『呻吟語』

                                                                              

浅はかで、軽薄な自分を脱するがために

『呻吟語』を読むのだということを心に刻み忘れないよう、

この言葉をここに記す。

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October 03, 2009

頭山満 独りでいても・・・(1)

孤独。

つらいものであるが、

それはそれで楽しめる心をつくるのが修行なのかもしれない。

頭山満はこう言っている。

自分は、自分の絶対の自覚信念を喜び楽しんでいるばかりぢゃ。

褒めようと、謗ろうと人の勝手ぢゃ。

凡人など百人居ろうと何人居ろうと、己一人きりが頼みぢゃ。

その百人のうちに万世生き通し、

不老不死の奴がたまにはある。

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October 01, 2009

昔の学者はよく人を受け入れた。

古の学者は、能く人を容る

(いにしえのがくしゃは、よくひとをいる)

                              『言志耋録』

                                                                           

昔の学者はよく人を受け入れることができ、人間の器が大きかったが、今の学者は見識も度量も狭い、むしろ学問をしない一般の人の方が特定の考えがないから人をよく容れることができる、佐藤一斎先生は江戸時代に嘆いている。

                                                                             

学問といっても知識の学問にばかりになってしまった現代では一層、一斎先生の嘆きは切実のものとなる。

人をよく容れることができるか、容れられないかが、真に学問を身につけているか否かのメルクマールになるのかもしれない。

その意味で私の学問はまったくなっていない。

                                                                              

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