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November 14, 2009

しばらく休みます。

しばらくお休みさせていただきます。

再開は、来月以後となると思います。

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November 11, 2009

日月の「神のイキ」とは?

岡本天明の『日月神示』

磐戸の巻の第4帖にこうある。

悪と善とたてわけて、

どちらも生かすのざぞ、

生かすとは神のイキに合わすことぞ、

イキに合へば

悪は悪でないのざぞ。

「神のイキ」とは

「神の息」

ととらえられるのではないか。

「神の息」とはなんぞや。

一人一人の人間の中には

神がいる。

しからば、「神の息」とは

その人間が

「自然に持っている息」の

ことではないか。

「自然にもっている息」とは

自分が一番気持ちいい状態の

「呼吸」‐「息」である。

その「今の自分の息」を

日々大切にしていくことによって、

次第に、

(以前の記事に書いたような)

ゆっくり 

長く 

静かに 

深く 

気持ちよく・・・

と純然たる「神のイキ(息)」

に近づいていく。

すると、

善はよりいっそう善となり、

悪は悪のままで

悪ではなくなる

という意味ではないか。

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志と健康

自分の志(仕事)

‐人格(魂)を

向上させ、

文を書くこと

に邁進していると

決まって足を引張るのは

体調である。

今もちょうど

そんな状態である。

できることなら

健康のことなど考えずに

生活したいものだが、

難しい身体を

抱えているのだから

仕方がない。

ただ体調を管理する

というのみならず、

健康について勉強を

しなければ志を遂げる

どころか

寿命も残り少ないという

危機感がある。

自分が志を遂げるには

あと2030年は

どうしても生きねばならないだろう。

人格=魂の向上

書く(表現する)

健康

という三本柱は

自分の人生にとって

欠かせないのだ。

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November 09, 2009

欲をなくせば、楽しくなる(2)

欲望を満足させるのは、真の「楽しさ」ではないのだ。

むしろ欲望を無くしてこそほんとうに「楽しめる」。

たとえば、社会に出てからの勉強でもこれを学ぶことによって、

収入を増やすことにつなげる、

または、人から重きを置かれる

などと、欲を持つから楽しくなくなってしまうの

かもしれない。

学生でいえばいい学校に入ろう、成績を上げようと

求めて学ぶから、ほんとうは楽しいはずの学問も

面白くなくなってしまうのだろう。

きっと勉強でも楽しんで行なっている

人の方がものになるのだ。

努力して学ぼうとするよりも、

勉強を好きになるべきだ。

好きになるだけでなく、

さらに進んで楽しむようになるべきなのだろう。

子曰く、

之れを知る者は、之れを好む者に如かず。

之れを好む者は、之れを楽しむ者に如かず。

              『論語』

                                                        

                                                        

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November 06, 2009

欲をなくせば、楽しくなる(1)

朱子曰く、

「人の楽しまざる所以は、欲有ればのみ。

欲無ければ便ち楽し」

        『洗心洞箚記』より

〔訳文〕

朱子がいう。

「人が楽しめないのは、欲望があるからだ。欲望がなければ楽しめる」

「これからの時代は正しいことより楽しいこと」

と本で読んで以来、意識している。

古(いにしえ)よりの夜のリズムの時代は終焉して、

昼のリズムの時代を迎えようとしている。

昼のリズムの時代は「正しさ」よりも

「楽しさ」を追及する時代なのかもしれない。

でもいまだ夜の時代の感覚がぬけておらず、

「楽しい」ことを追いかけていいのかと思ってしまう。

ところが、冒頭の言葉を読むと、

自分が「楽しいこと」は何であるのか履き違えて

いたのかもしれないと気づかせてくれる。

いのちのちから

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November 04, 2009

資料に語らせ、自分のものにする

11月3日に東大で、

筑紫哲也さんの一周忌を前に

シンポジウムが開かれたそうだが、

その中で出席された

筑紫さんの娘さん、ゆうなさんは、

ジャーナリストであったお父さんを

振り返ってこう言ったそうだ。

「取材を消化した上で

書くという姿勢は

闘病中も変わらなかった」

  (朝日新聞11/4朝刊より)

これは、ジャーナリストでなくとも

大切なことであろう。

資料や取材を消化して書くことは、

対象を自分のものにしてから

書くということである。

一方で、同じく

シンポジウムに参加された

姜尚中・東京大学教授は、

「ジャーナリズムは

人に語らせること。

筑紫さんは非当事者であることに徹し、

人に語らせることが見事に

できた人だった」(朝日新聞11/4朝刊より)

と語った。

誰もができることではないだろうが

「非当事者に徹し、人に語らせる」ことは

取材を消化し自分のものにする

前の段階に大切なことであろう。

インタビューするのではなく、

ただ資料をさがして読む場合にも、

「非当事者として、

資料に語らせる」ような心構えは

必要であろう。

これは自分の思い込みを捨てて

白紙になり、資料に

あたるということでもある。

すると、資料の方で、

次から次へといい情報を

提示してくれているような

錯覚をおぼえる

嬉しい状況にいたるときがある。

それこそが、きっと

「資料に語らせている」時なのだ。

こうして集めた取材、資料を

消化するということは、

それらを「自分の思い込み」にまで

料理することといえるのではないか。

それは極端な意見であるにしても

客観に徹して見た

取材や資料を

まとめるときには

自分の温もりが人に感じられる

ところまでもっていかないと

人には伝わらないのだ。

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自己評価とブレないこと

日曜日に

お恥ずかしい大失態を

やらかし、

そのときはなんとか切抜けたものの

あとになって

自己嫌悪が生まれている。

自己評価が低くなると、

自分の目指していることが

ふさわしいものかどうかと

迷いだす。

すると、それまで

当り前にやってきた

その志に到達するための

自己鍛錬も無意味なものの

ように思え、

できなくなってしまう。

この状態を一言でいえば

“ブレる”

もしくは

“ブレる寸前”というのだろう。

偉大な事を成し遂げた人は

みな「ブレない」という。

「ブレない」ということは

自分の「自分への見方」が定まっている

つまり、自己評価が高い

ということでもあろう。

日曜日の恥ずかしい失態を

どう見れば自己評価が下がらないか

もう一度、見直してみよう。

                                        

                                       

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志少しも退かず~沢庵(8)

最後に関連して

二つの言葉をあげておきます。

已むを得ざるにせまりて、

しかる後に、

これを外に発する者は花なり。『言志録』

かくすれば

かくなるものと

知りながら

やむにやまれぬ

大和魂    吉田松陰   

      (終)

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November 02, 2009

志少しも退かず~沢庵(7)

志に向かわざるを得ないから向かう。

夢を追いかけざるを得ないから追いかける。

それが、ほんとうの志や夢であろう。

そして、その背後には

人間にはとうていはかり知ることができない

大きな力が働いているのだ。

今、若い子たち、子どもたちが

夢を持たなければならない、

目標を持たなければならないと

追い立てられているということを聞いた。

夢が自分の力でもてることができるものではない

ということを知ったなら、

志、夢を求めてあてもなくさまようのは、

完全にムダといわないが、

かなりの浪費であろう。

志、夢がなくて探すのに、有効な場合は、

志や夢をさがさざるを得ない、

いても立ってもいられない、

夢をさがすという夢が心の内に

植えつけられたときのみではないかと思う。

もし志や夢が今、ないというならば、

目の前にあることに感謝してこなしていくべき

なのだろう。

もしも、

背後に大いなるもの(神といっても仏といってもいい)

の働きがあるほんとうの志、夢なら

今それに向かっていくことは

「今ここ」を大切にしていることになる。

なぜならば、志や夢というものは、

自分の心の中に「今在る」ものなのだからだ。

それに向かうという事は

今を大切にしていることに他ならない。

それ以外の外部から取ってつけたような

夢、志であるならば、

それに向かうことは

今を犠牲にするということと

等しいといっても

過言ではないのではないか。

                                                                              

 

とにかく、夢を持て、

何かを目指せと、

子どもたちや若者を

追い立てるのはやめたいものだ。

                                             

          (つづく)

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