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February 23, 2010

『正法眼蔵』講義および『母の祈り』

道元禅師は「只管打座」の法門を日本に広められた。これは、「ただ坐ること」である。悟るために坐るのでなく、ただ坐るのである。行ずることそのことになりきるのである。一見、楽しそうに見えて実はなかなか到達できないすばらしい世界、「ただ・・・・・・する」という世界に、このとき禅師は眼を開かされたのである。 紀野一義著『名僧列伝(一)』

『名僧列伝』を読んでいて、「道元」の章に入るとなめらかに心に溶け合ってくるような感覚を覚えた。どうも、道元や曹洞宗とは前世よりの因縁がありそうだ。じつは私が入ることになっている霊園も曹洞宗のあるお寺の管轄になっている。たまたまそうであったということだけであるが。

今日も谷中の全生庵で、紀野一義先生による『正法眼蔵を現代に生かす』の講義を受けた。

                                          

紀野先生のお母様が、台湾に出兵されている息子(先生)のことを仏様に祈り、

「どうか私の命はいりませんから、カズちゃん(紀野先生のこと)をお守りください」

と毎日お願いしていたそうだ。

先生はそれについて

「仏様にお母さんが、私の命もカズちゃんの命もどうか助けてくださいとお祈りしていりゃよかったのに。だから、私だけが生き残り、広島に原爆がおちてお母さんだけが死んでしまったんだ」

とたんたんと述べられていた。

 私は聞きながら、メガネの下がぬれて仕方がなかった。人に悟られるのではないかと気になってしょうがなかった。

 今まで参加したさまざまな方の講演・講義の中で、ここまで「目がぬれた」のは初めてだったかもしれない。

                                                       

                                                           

                                                                 

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February 14, 2010

自分の限界が見えてからがほんとの勝負

ある程度の年齢に達すると、

自分の限界がみえるという。

多くの場合、否定的に言われている。

でも、自分の限界が見えたということは

自分を知ることができたということでもある。

                                                            

作家、中野孝次は、

すでに中年になっていたが、

創作について、自分の才能の限界が

見えたので、

古人の言葉を現代人に紹介することを

自分の仕事としてやっていこうと

決心したという。

そこから、ベストセラー『清貧の思想』等

多くの人の心に古典をあらためて

響かせる数々の作品が生れた。

                                                         

自分の限界が見えたから、

もうお終いなんてとんでもない。

自分の限界が見えてからが

ほんとうの勝負だ。

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February 12, 2010

1つの真心のあらわし方

久しぶりに書きます。

ブログを書くことが自己の内面の

成長に与らないならば、

まったく意味が無いと

あらためていま思っています。

人を励ましたり、何かを伝えられるほどの

ぼくではないからです。

                                                             

前回、無理をしないと書きましたが、

無理をすべきではないのは、

肉体よりもむしろ心であると

気づいた今日この頃です。

                                                            

その人のことが嫌いで

心の底で憎んでいるのに葬式に

行くというようなことは

今後はできるだけ避けたい。

それが死後唯一できる

故人への最大の自分にとっての

愛情表現であるはずです。

                                                         

今まで表にはあらわさなくとも、

心の底ではうらんでいるような

相手だからこそ

葬式などなにかというときに

行ってしまうという無自覚の自分

がいました。

                                                          

ただ憎んでいた相手だからこそ、

亡くなって葬式ぐらいは行きたいと

いうこともあるでしょうが、

それが許されるのは、

おそらく憎んでいるということを

自分でも意識していて、

ときには相手とあからさまに

争うようなことを

してきた場合ではないでしょうか。

                                                         

憎しみという感情を無意識の底に

沈滞させて

つきあっていたという場合は、

むしろその人の最後ぐらいは

正直になって

行かない方が

相手と相手の家族のためにも

いいということがあるような気がします。

どのような気持ちでその人が

自分の家族の葬式に来ているか、

ふとわかる瞬間がないとも限りません。

どうしても行かねばならない

場合、自分の感情をひた隠しに隠す

べきですが、

それがなかなかうまく出来ない

自分のようなものは

出来うる限り行かぬべきです。

                                                                 

ただ相手が死んだからといって、

それまで気づかなかった相手への感情が

わかるというばかりではないのですが、

葬式に行っても行かなくてもいいような

立場にいる場合は、

相手のことを自分はほんとうには

どう思っているか

心を見つめるぐらいのことは

すべきなのかもしれません。

                                                        

とても消極的ですが、

1つの真心のあらわし方でもあるように

思います。

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