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February 12, 2010

1つの真心のあらわし方

久しぶりに書きます。

ブログを書くことが自己の内面の

成長に与らないならば、

まったく意味が無いと

あらためていま思っています。

人を励ましたり、何かを伝えられるほどの

ぼくではないからです。

                                                             

前回、無理をしないと書きましたが、

無理をすべきではないのは、

肉体よりもむしろ心であると

気づいた今日この頃です。

                                                            

その人のことが嫌いで

心の底で憎んでいるのに葬式に

行くというようなことは

今後はできるだけ避けたい。

それが死後唯一できる

故人への最大の自分にとっての

愛情表現であるはずです。

                                                         

今まで表にはあらわさなくとも、

心の底ではうらんでいるような

相手だからこそ

葬式などなにかというときに

行ってしまうという無自覚の自分

がいました。

                                                          

ただ憎んでいた相手だからこそ、

亡くなって葬式ぐらいは行きたいと

いうこともあるでしょうが、

それが許されるのは、

おそらく憎んでいるということを

自分でも意識していて、

ときには相手とあからさまに

争うようなことを

してきた場合ではないでしょうか。

                                                         

憎しみという感情を無意識の底に

沈滞させて

つきあっていたという場合は、

むしろその人の最後ぐらいは

正直になって

行かない方が

相手と相手の家族のためにも

いいということがあるような気がします。

どのような気持ちでその人が

自分の家族の葬式に来ているか、

ふとわかる瞬間がないとも限りません。

どうしても行かねばならない

場合、自分の感情をひた隠しに隠す

べきですが、

それがなかなかうまく出来ない

自分のようなものは

出来うる限り行かぬべきです。

                                                                 

ただ相手が死んだからといって、

それまで気づかなかった相手への感情が

わかるというばかりではないのですが、

葬式に行っても行かなくてもいいような

立場にいる場合は、

相手のことを自分はほんとうには

どう思っているか

心を見つめるぐらいのことは

すべきなのかもしれません。

                                                        

とても消極的ですが、

1つの真心のあらわし方でもあるように

思います。

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