「真心」を知る
生きていくことは、ほんとうみっともないことだ。
先日も、相手の真心に応えようとして、オーバーなジェスチャーをつけて、第三者から見れば迎合するようなことを言ってしまった。
明らかにやり過ぎである。またしても恥ずかしいことをしてしまった。自分に「相手の真心にこたえようとしたのだから、これでよかったんだ」といい聞かせるが、「五十が目前にせまろうとしている年齢となって何をやっているのだ」という心の声が湧き上がってくる。
「真心を込めたのだからいいだろう」という考えは、そもそも手前勝手な考え方である。だから真心を込めても、相手に伝わらなければ意味がない。…と言い切りたいところだが言い切れないところがある。真心を込めるとは別の言葉でいえば気持ちを込めるということでもある。ほんとうの真心というのは、むしろ「相手に伝わろうが伝わるまいが、その対象に気持ちを込める」ことかもしれない。
豊臣秀吉こと木下藤吉郎が草履とりのとき、信長にわかるように草履をあたためていたのではない。わかろうがわかるまいが、ともかく、主君の足をあたためることに腐心した。そこを信長は見た。僕はそう思う。そして、そんな主君だからこそ、「士は己れを知るものの為に死す」(『史記』)。いっそう藤吉郎は尽くしたのであろう。
こう見ると、誰かの「己を知る」とは決して能力ではない。目に見える能力とは誰にでもわかるものである。そんなところに目をつけられたとて、当たり前であり、嬉しくもなんともない。能力の蔭ににじむ「心」をわかってもらえたときにこそ跳び上がりたいほどの喜びを感じる。
己の全能力・生命を投げ出してでも、対象に尽くす。切実な思いはわかってもらおうと思ってもわかってもらえるものではなく、わかってもらおうとしてやるとウソになる。もし言葉にしてしまったならば、すべては泡沫のごとく消えてしまう。だからこそわかってもらえたときは嬉しい。
相手の「己を知る」というと、どうもあたまで知覚することのように傾きがちであるが、そうではないようだ。むしろ「感じる」の方がはまる。「真心」は「知る」ものではなく、「感じる」もの。さらに「わかる」もの…「体全体で」である。いや、「体全体で」という言葉が出てきた以上は「受けとめる」ものといいたい。「士は己を受けとめるものの為に死す」と…。
史記では「士は己れを知る者ために死し」の後に、「女は己れをよろこ(説)ぶ者の為にかたち(容)づくる」と続く。諸橋徹次の『中国古典名言事典』は「女子は、自分を愛し喜んでくれる人のために容色をととのえる」と訳している。これは「女子は、自分の全存在を受けとめてくれる人のために」とした方が重みは増す。ほんとうに愛するとは、つまみ食いのように都合のいいところだけを喜ぶことではないはずである。
自分もはやく、人の真心を受けとめられる人間になりたいし、「真心」をさりげなく込められるようになりたい。「知命」まで後三年と迫っている年齢で何をやっているのだという声がどこからか聞こえてきているが…。
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