まこととまことの間にあることば
日本の文化は行間にあるというよね。
ほんとうにそうだと思う。
でも、行そのものにもあると思う。
それが、まことではないだろうか。
さっき気づいたんだ。
まことから出たことば・・・
それとそれとの合間(あいま)であるから
きっと行間が無限にふくらむんだね。
日本の文化は行間にあるというよね。
ほんとうにそうだと思う。
でも、行そのものにもあると思う。
それが、まことではないだろうか。
さっき気づいたんだ。
まことから出たことば・・・
それとそれとの合間(あいま)であるから
きっと行間が無限にふくらむんだね。
ことばは人をしばるけど、
そのことばが真心から出たとき、
むしろひろがっていく。
ことばはことばで、同じように
みえるけど、
ぜんぜん、ちがうことばが
あるんじゃないかな。
世間は、いま、人をしばることばばかりが
あふれてるけどね。
ぼくが、毎日、そんなことばばかりを
つかっているように。
人の真心を見捨てているように・・・
言葉が出てきた時に
すぐにとどめておかないと
どこかに逃げてしまう。
さっきも画面を新規投稿に
切り替える間にどこかへ去(い)ってしまった。
言葉はいきものだとはいわないけれど、
まるで、スルスルっと
両手のひらから逃げていく、
ドジョウやウナギのようだ。
言霊というのは、声に宿っているのかもしれない。
だから、一人暮らしなどしていると、よくあることだが、
誰とも話さない日がある。
すると、生きている実感が湧いてこない。
それは、人と触れ合っていないからというより、
声を出していないからなのではないか。
人間の魂は、体のどこかにあるのではなく、
声にあるのかもしれない。
そういう仮説を立ててみると、意外と
思わぬ真理が見えてくるかもしれない。
人間の心の底からわきあがってくる言霊=声とは、
もしかしたならば、宇宙からの言霊=声であり、
つまり、人間の魂とは、
宇宙そのものではないか・・・とか。
誰も話し相手がいなくても、
とにかく、声を出してみよう。
魂が戻ってくるかもしれない。
今朝方(6月4日)、なんとなく体や心が重く何もする気になれなかったのだが、ふと小林正観さんのことを思い出し「ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」と繰り返し口ずさんでみた。そしたら、100回を越えたあたりから、元気になれた。 まるで、無添加の良質なサプリメントをのんだときのように・・・。 「ありがとう」を数万回唱えるといいことあることを読んだが、たったの100回でいいことが起きた。ありがとう!
高尚な理論も、平俗な言説も駄目だが、かといって他人の口真似でも困る。真底、自分の肺腑から出た、自分の言葉を言ってみよ。
鏡島元隆著『道元禅師語録』の〔付記〕より
まったくこのための日々の修行であり、このための人生である。
中島敦の文章は文語という言葉はあてはまらないかもれませんが、
山本夏彦は「明治の漢文くずし」と表現しています。
前回の記事の補足のつもりでしたが、
それを調べていて、どうしても紹介したい部分が見つかりましたから、
ここに掲載します。
(以下、同じく山本夏彦著『完本 文語文』よりご紹介します。)
日本でも漢詩文の全盛時代は、
なんと明治30年代で終わっている
のだそうです。
大正以後は英文学は学んでも漢文学を学ぶもの少なく、
昭和にはいなくなりました。
大正以後の文学者で漢詩文の教養を示したものはない
ということです。
その時代が30年間も続きました。そこへ流星のごとく、
現れ一瞬で消えていったのが、中島敦でした。
その当時の人々の驚きぶりが、以下の文章によく出ていると思います。
だから中島敦(明治42年生)が「文学界」(昭和17年2月号)に
「古譚」を書いてデビューした時はほとんど驚愕した。
中島敦の文章は明治の漢文くずしである。
それでいてすこしも古くない。中島は英文学の研究者というよりも
愛読者である。そのせいか清新の気がみなぎっている。
テレビもインターネットもなく、映画があっても今ほど普及していなかった時代、文章は時代の先端をいく娯楽だったでしょう。
その文章が、明治の漢文くずしでありながら、当時の人々があまり触れることがなかった本格的な英文学の影響で洗練されている。
読んだ人々は驚くとともに、中島敦の作品に食いついたのではないでしょうか。
そして、その新鮮さは21世紀となった、
いまでも失われていないのです。
となると中島敦の“凄さ”は、
漢文と英文学の教養だけではないのかもしれません。
話が変わりますが、
使用している「文語」の意味を調べておきました。
(以下、広辞苑より)
日本語では、現代の口語に対して、特に平安時代語を基礎として発達・固定した言語の体系、または、それに基づく文体の称。
平安時代にすでに“文語”はほぼできあがってしまったんですね。
その長い歴史をもつ言語をなぜ、明治の日本人は捨ててしまったのでしょうか。
もう、文語と口語を明快に分けてどちらも使用していた時代に戻ることは
できないのでしょうか。
文語に戻れないということは、日本人が過去の日本人にもう戻れない
ということを象徴的に表しているような気もします。
コラムニストの山本夏彦(故人)は
中島敦の『李陵』を引用した上で
こう書かれている。
「李陵」の発端である。
弱年の私は読んでほとんど恍惚とした。
日本語が失ったリズムと力が
ここには躍動している。
『完本 文語文』より
ご存知のように中島敦の小説は、
当用漢字に出ていない漢語のオンパレード
である。
それでも、教科書に載っていることでわかるが、
高校生でも読めてしまう。
それを山本夏彦は、ずばり
「文はリズムがあれば分るのである」(前掲書より)
としている。
そして
口語文は意味が分っても朗読に耐えない。
小中学校では昭和初年以来次第に
暗誦させなくなった。
文語文が教材中から減ったからである。
(前掲書より)
自分もあこがれを抱いているだけで、
文語はろくに読めない日本人の一人だ。
それでも、一度文語にふれるてしまうと、
同じ内容の口語文を見ても、
気が抜けたビールや炭酸飲料のようで、
どうも飲む気にはなれなくなる。
そんなことを何度も経験している。
「表現」というもの、ぼくの場合、
台本とか企画書というものを十数年
やってきましたが、
そうした「表現」をつきつめていくと、
やはり、「ことば」につきあたります。
その、「ことば」が
たくさん出ているのが辞書。
日本では『言海』の大槻文彦からはじまって、
以前は、膨大な数のことばの宇宙を
一人でつくっていたそうです。
『大漢和辞典』全13巻という
世界最大といわれる
巨大な漢和辞典を編纂したのが、
でした。
500セットの一括発注を受けたそうです。
『文芸春秋2008季刊秋号 素晴らしき日本語の世界』
には、「辞書界の巨人」の一人として、
評論家の紀田順一郎氏が諸橋轍次を紹介しています。
実際の作業がスタートしたのは
昭和4年(1929)、ちょうど漢和辞典を
企画していた鈴木一平(大修館書店社長)の
依頼によるが、諸橋はすでに四十五歳だった。
世田谷の自宅を編纂所として、
まずカード作りから始め、
出典はすべて記憶やカンで調べあげた。
風でカードが飛ばないように、
真夏でも窓を閉め切って作業を行った。
風でカードが飛ばないように、
真夏でも窓を閉め切って
作業を行った。
戦時中は助手たちが
相次いで軍隊にとられ、
諸橋自身も片方の目が
失明同然となってしまった。
(中略)
『大漢和辞典』が昭和三十五年(1960)に
完成したとき、
諸橋は七十六歳だった。
編纂期間は三十五年、関係者は延べ二十五万八千人、
総経費九億円という大事業だった。
出版記念会で諸橋は控えめに編纂の苦労を
述べたが、「おれを聞いて日本人が
頼もしくなった」(安倍能成)という声も出た。
(中略)
諸橋轍次の故郷、
新潟県南蒲原郡下田村(現・三条市)には、
平成四年(1992)に完成した
諸橋轍次記念館があり、
その外壁には、
「行不由径」(ゆくにこみちによらず
‐小さな枝道を行かずに大道を歩め)
という信条が刻まれている。
「行不由径」(ゆくにこみちによらず)、
胸にずきんと響くことばです。
大道を歩み、いずれは、
『大漢和辞典』全巻を傍らに置いて、
仕事をするようになりたい、
あらためてそう思いました。
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