資料に語らせ、自分のものにする
11月3日に東大で、
筑紫哲也さんの一周忌を前に
シンポジウムが開かれたそうだが、
その中で出席された
筑紫さんの娘さん、ゆうなさんは、
ジャーナリストであったお父さんを
振り返ってこう言ったそうだ。
「取材を消化した上で
書くという姿勢は
闘病中も変わらなかった」
(朝日新聞11/4朝刊より)
これは、ジャーナリストでなくとも
大切なことであろう。
資料や取材を消化して書くことは、
対象を自分のものにしてから
書くということである。
一方で、同じく
シンポジウムに参加された
姜尚中・東京大学教授は、
「ジャーナリズムは
人に語らせること。
筑紫さんは非当事者であることに徹し、
人に語らせることが見事に
できた人だった」(朝日新聞11/4朝刊より)
と語った。
誰もができることではないだろうが
「非当事者に徹し、人に語らせる」ことは
取材を消化し自分のものにする
前の段階に大切なことであろう。
インタビューするのではなく、
ただ資料をさがして読む場合にも、
「非当事者として、
資料に語らせる」ような心構えは
必要であろう。
これは自分の思い込みを捨てて
白紙になり、資料に
あたるということでもある。
すると、資料の方で、
次から次へといい情報を
提示してくれているような
錯覚をおぼえる
嬉しい状況にいたるときがある。
それこそが、きっと
「資料に語らせている」時なのだ。
こうして集めた取材、資料を
消化するということは、
それらを「自分の思い込み」にまで
料理することといえるのではないか。
それは極端な意見であるにしても
客観に徹して見た
取材や資料を
まとめるときには
自分の温もりが人に感じられる
ところまでもっていかないと
人には伝わらないのだ。
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