November 04, 2009

資料に語らせ、自分のものにする

11月3日に東大で、

筑紫哲也さんの一周忌を前に

シンポジウムが開かれたそうだが、

その中で出席された

筑紫さんの娘さん、ゆうなさんは、

ジャーナリストであったお父さんを

振り返ってこう言ったそうだ。

「取材を消化した上で

書くという姿勢は

闘病中も変わらなかった」

  (朝日新聞11/4朝刊より)

これは、ジャーナリストでなくとも

大切なことであろう。

資料や取材を消化して書くことは、

対象を自分のものにしてから

書くということである。

一方で、同じく

シンポジウムに参加された

姜尚中・東京大学教授は、

「ジャーナリズムは

人に語らせること。

筑紫さんは非当事者であることに徹し、

人に語らせることが見事に

できた人だった」(朝日新聞11/4朝刊より)

と語った。

誰もができることではないだろうが

「非当事者に徹し、人に語らせる」ことは

取材を消化し自分のものにする

前の段階に大切なことであろう。

インタビューするのではなく、

ただ資料をさがして読む場合にも、

「非当事者として、

資料に語らせる」ような心構えは

必要であろう。

これは自分の思い込みを捨てて

白紙になり、資料に

あたるということでもある。

すると、資料の方で、

次から次へといい情報を

提示してくれているような

錯覚をおぼえる

嬉しい状況にいたるときがある。

それこそが、きっと

「資料に語らせている」時なのだ。

こうして集めた取材、資料を

消化するということは、

それらを「自分の思い込み」にまで

料理することといえるのではないか。

それは極端な意見であるにしても

客観に徹して見た

取材や資料を

まとめるときには

自分の温もりが人に感じられる

ところまでもっていかないと

人には伝わらないのだ。

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April 28, 2009

“ろくでもないものだ”と思っていないと“ろくでもないもの”をつくってしまう

「自分なんて、ろくでもないもんだ」と思っていた方がいいと、小林正観の本で読んだけど、実際そういうスタンスで暮らした方が何かと事がうまく運んでいる。

 ただ“ものづくり”についてはどうなんだ、自分がなくてはろくなものはつくれないのではないかとよぎる。ふと小林秀雄の講演テープで聞いたことを思い出した。個性、個性、・・・と小説でもなんでもはじめから自分を出そうとおもってつくったものにろくなものはない。人を楽しませる等のために対象に没入してつくりあげたものの中から、自ずとにじみでてくるものが本当の個性なのだ。といったような内容だった。 

やはり、そういうことなのかもしれないなぁ。

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November 28, 2008

ホームページはホームページではない?

今は、もはやホームページも

重要な表現の一形式だと思い、

HTMLに関する本を購入した。



シェークスピアの時代は、

演劇が最先端のメディアだった。

ヴィクトル・ユゴーは当時、

やはりもっとも新しいメディアであった

出版を自分の思想を

広げるツールに使った。



現代においては、

インターネットであろうということで

学ぶ手段として、

歴史からみると伝統のメディアである

“出版物”を買ったというところに

ネットを使いこなすものから見れば、

もうすでに、感覚がズレている

のかもしれない。



その本を読んで

驚いたのは、

「ホームページをホームページと呼ぶのは

素人だけ」

とあったことだ。

ようするに、わたしのような素人が

ホームページと読んでいるのものは、

正式には「Webサイト(ウェブサイト)」

と呼ぶそうだ。

そして、その中の1ページを

「Webページ」という。



それでは、「ホームページ」という言葉は、

本来、使うべきではないものかと思えば、

インターネットを起動した時に最初に

表示されるページのこと、

それが「ホームページ」なのだそうだ。

つまり、

ウインドウズのInternet Explorerを起動して

〔ツール〕メニューの

〔インターネットオプション〕を

クリックした時、

一番上に書かれている「ホームページ」、

これが正式な使い方なのだ。



なんと今まで自分は「Webサイト」という

言葉は、

「ホームページ」をかっこつけて

呼ぶ言葉だと思っていた。

それでいつもは「ホームページ」と

言って、ときおり「Webサイト」と発していた。

今更、かっこうつけてもしょうがないと

思ったためでもある。

かっこうつけるもなにも、

言葉の意味がちがうというのに・・・。



20代のころ、

ある女性ロック・シンガーの前で、

作家であるにもかかわらず、

覚醒剤や麻薬のことを

「まやく(麻薬)」「まやく(麻薬)」と連呼していて、

「“クスリ”とか“ヤク”と言え!」

と指摘されたときの

恥ずかしさを思い出してしまった。

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