「内なる声」をとりだすこと
全盲のピアニスト辻井伸行さんが、7日、アメリカのバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝しました。ぜひこんどCD等で演奏を聴いてみたいものです。
ところで、トルコのピアニスト、作曲家のファジル・サイさんの以下のおことばに共感します。ぼくは音楽にくわしいわけではありませんが、これはあらゆる表現にいえることではないでしょうか。(以下、朝日新聞「Globe」より)
クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3、4分で映画のサウンドトラックのように「物語」をつくらないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性をもっていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
(中略)
作曲とは「わき出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーション(感情)の高まりを伴わないならば、それは音楽ではないと思う。
「内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい」。-「内面からの演奏」で思い出すのは、フジ子・ヘミングです。彼女の引くリストやショパンには数々のドラマがあるように思います。たしかフジ子は以前、テレビ番組で「少しくらい鍵盤を間違えても気にしない」と言っていました。「わき出るもの」の方が大事なのでしょう。
ところで、鏡島元隆『道元禅師語録』には、こんな言葉があります。
人人(にんにん)夜光(やこう)の珠(たま)を握り、箇箇(ここ)荊山(けいざん)の玉を抱く。若(いか)んが回光返照(えこうへんしょう)せずして、甘んじて宝を懐いて邦(くに)に迷うことをせん。
〔訳〕人びとすべては、夜光の珠にも比すべき明珠(仏性)を本来抱いているのであり、それぞれは荊山の玉にもたとえるべき宝珠(仏性)を本来蔵しているのである。それなのにどうして、回光返照してこれを覚らないで、せっかくの宝を抱きながら、他国に迷うているのであるか。
(※一部、筆者が書き換えました)
※ 回光返照‐外に向かう心を翻して内なる自己を反省すること。
音楽について無理矢理につなげれば、さまざまな曲や音にとらわれ、惑うことなく、回光返照して、明珠・宝珠=仏性を覚り、表現するということでしょうか。
これは言葉での表現も同じことだと思います。今はパソコンによっていくらでも言葉を取り出せます。しかし、そこに「わき出るもの」-「内なる声」がなければ、ただの文字の羅列に過ぎませn。
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