地球から生まれた日本
日本という国は、地球から生まれた。
日本を守ることは、地球を守ることである。
地球を守ることは、日本を守ることである。
原発は現在のテクノロジーではコントロールできないであろう…。
「今回の震災では想定外の津波が起こった、だから
制御できなくなった」が原発推進派の理屈である。
想定外の災害だからコントロールがきかなくなった。
想定内であれば、コントロールがきいたといいたいのであろう。
つまり、想定外の災害が起こったら、これからも
コントロールがきかないといっているようなものである。
人間がどんなに想定しても想定外のことが起こりうるのが
自然である。
だから、原発は、コントロールできない。
おそらく推進派の人々はそんなこと、わかっている。
それでもごり押ししてすすめている。
木々の緑が新しい光を放ち始め、風をきらめかせる。あまりにも見ている者との距離が遠すぎて傍観という言葉しかあてはまらない。なにゆえ風は風なんだろう。なにゆえ光は光なんだろう。なにゆえ世界と自分との距離はこんなにも遠いのだろう・・・。
今まで世界としてきたものが単なる虚構で、外の色と光とだけが真実であるとしたら、人間の存在はその存在ゆえにあまりにも無意味過ぎる・・・
夜、アカにまみれた緑色のカーテンで外と内とを隔てる。とその時、突如として木々が発する風のざわめきこそがわが心であると気づく。それまでこんなにも離れていた眼前の世界が、わが心の空洞とこんなにも通じていたなんて・・・。
僕は今、肺胞を吹きすさぶ風を感じながら、世界の空しさをかみ締めている。
雑木林も野原も、畑も、柳瀬川も越えて、
関越を滑るタイヤの音が深夜1時半をおおう。
その音響は、宇宙と、床の中で眠りに落ちている
自分たちとを遮断していることに誰も気づいていない。
僕たちはいつから静寂を失ってしまったのだろうか。
哀しみさえもろくに胸に沁みることのない喧騒の日々。
市の保存樹林の葉陰で、羽毛の中に身を縮めて眠る
雀たちのようにただたえることしか
できないのであろうか。
こうしている間にCPUから絶えず機械音が流れている。
川のせせらぎには光があるが、
パソコン、携帯、水道、冷蔵庫、・・・
部屋の中の音にはどれひとつとっても
“いのち”が見つけられない。
窓を開けると、冷気とともに高速や国道の
アスファルトからはがれるゴムタイヤの
感情のない音がまた差し込んできた・・・。
静けさのない寂しさに慣れている自分を
今日はじめて知った・・・。
地獄にいて、地獄を感じないのが、天国。
天国にいて、天国を感じないのが、地獄。
天国も地獄も心の中にある。
でも、つらくて悲しい人は世界にいっぱいいるんだ。
地獄から目をそらしちゃいけないよね。
久しぶりに書きます。
ブログを書くことが自己の内面の
成長に与らないならば、
まったく意味が無いと
あらためていま思っています。
人を励ましたり、何かを伝えられるほどの
ぼくではないからです。
前回、無理をしないと書きましたが、
無理をすべきではないのは、
肉体よりもむしろ心であると
気づいた今日この頃です。
その人のことが嫌いで
心の底で憎んでいるのに葬式に
行くというようなことは
今後はできるだけ避けたい。
それが死後唯一できる
故人への最大の自分にとっての
愛情表現であるはずです。
今まで表にはあらわさなくとも、
心の底ではうらんでいるような
相手だからこそ
葬式などなにかというときに
行ってしまうという無自覚の自分
がいました。
ただ憎んでいた相手だからこそ、
亡くなって葬式ぐらいは行きたいと
いうこともあるでしょうが、
それが許されるのは、
おそらく憎んでいるということを
自分でも意識していて、
ときには相手とあからさまに
争うようなことを
してきた場合ではないでしょうか。
憎しみという感情を無意識の底に
沈滞させて
つきあっていたという場合は、
むしろその人の最後ぐらいは
正直になって
行かない方が
相手と相手の家族のためにも
いいということがあるような気がします。
どのような気持ちでその人が
自分の家族の葬式に来ているか、
ふとわかる瞬間がないとも限りません。
どうしても行かねばならない
場合、自分の感情をひた隠しに隠す
べきですが、
それがなかなかうまく出来ない
自分のようなものは
出来うる限り行かぬべきです。
ただ相手が死んだからといって、
それまで気づかなかった相手への感情が
わかるというばかりではないのですが、
葬式に行っても行かなくてもいいような
立場にいる場合は、
相手のことを自分はほんとうには
どう思っているか
心を見つめるぐらいのことは
すべきなのかもしれません。
とても消極的ですが、
1つの真心のあらわし方でもあるように
思います。
ブログもだいぶご無沙汰してしまいました。
(このココログの他、ライブドア、アメーバともに、
同時に更新休みました)
11月に体調を大きく崩し、
12月半ばくらいまでほとんどコントロールが
きかない状態でした。
それとともに、意欲が萎え、
症状がだいぶ落ち着いてからも
なぜか何事に対しても、
前向きに取り組む気になれません。
年明けて、今頃になってようやく、
身近なことに、
少しずつ手をつけてもいいような
気分になってきました。
今回病のお蔭で
身体もそうですが、
それ以上に、“心”を
あらためて見つめ直す機会を得ました。
どんなに弱くても、小さくても、
今の自分が自分なのです。
あるがままの自分を受け入れて生きるしかありません。
そう、一昨年あたりに、気づいたつもりで
いましたが、まだまだだったようです。
でなければ、体調を崩したとはいえ、
精神的にこんなにヘトヘトにならないはずです。
今年のテーマは、
つまだつ者は立たず、
またぐ者は行かず。(『老子 24章』より)
背伸びすることもなく、
大またで先を急ぐこともなく・・・。
“等身大”で生きようと思っても
そう簡単にできるものではないから、
「あるがままの自己を見つめ、
“等身大”をできるだけ意識して
無理をせずに」
生きてみるいうことをなんとなく
心にとどめておこうと思います。
そんなわけで、次の更新いつになるかは
わかりませんが、気が向いたら
またパソコン画面に登場します。
妻の田舎の鹿児島で法事があり、
あわせて、福岡にも足を伸ばして、22日より1週間ほど、
頭山満、西郷隆盛の足跡をたどってきます。
彼らが精読した『洗心洞箚記』(大塩平八郎著)を
片手に。
できれば形(本)にしたいと思っています。
はっきりいって、どうでもいいと
割り切ってしまえば、世の中、
どうでもいいことが多いんだ。
死さえも、どうでもいい、苦痛さえも
どうでもいいと割り切れれれば、
世の中、怖いものがなくなり、
だいぶ楽になれそうだ。
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