November 09, 2009

欲をなくせば、楽しくなる(2)

欲望を満足させるのは、真の「楽しさ」ではないのだ。

むしろ欲望を無くしてこそほんとうに「楽しめる」。

たとえば、社会に出てからの勉強でもこれを学ぶことによって、

収入を増やすことにつなげる、

または、人から重きを置かれる

などと、欲を持つから楽しくなくなってしまうの

かもしれない。

学生でいえばいい学校に入ろう、成績を上げようと

求めて学ぶから、ほんとうは楽しいはずの学問も

面白くなくなってしまうのだろう。

きっと勉強でも楽しんで行なっている

人の方がものになるのだ。

努力して学ぼうとするよりも、

勉強を好きになるべきだ。

好きになるだけでなく、

さらに進んで楽しむようになるべきなのだろう。

子曰く、

之れを知る者は、之れを好む者に如かず。

之れを好む者は、之れを楽しむ者に如かず。

              『論語』

                                                        

                                                        

いのちのちから

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November 06, 2009

欲をなくせば、楽しくなる(1)

朱子曰く、

「人の楽しまざる所以は、欲有ればのみ。

欲無ければ便ち楽し」

        『洗心洞箚記』より

〔訳文〕

朱子がいう。

「人が楽しめないのは、欲望があるからだ。欲望がなければ楽しめる」

「これからの時代は正しいことより楽しいこと」

と本で読んで以来、意識している。

古(いにしえ)よりの夜のリズムの時代は終焉して、

昼のリズムの時代を迎えようとしている。

昼のリズムの時代は「正しさ」よりも

「楽しさ」を追及する時代なのかもしれない。

でもいまだ夜の時代の感覚がぬけておらず、

「楽しい」ことを追いかけていいのかと思ってしまう。

ところが、冒頭の言葉を読むと、

自分が「楽しいこと」は何であるのか履き違えて

いたのかもしれないと気づかせてくれる。

いのちのちから

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April 02, 2009

楽しいばかりでなく厳しいも遺伝子のスイッチをONにする

最近は「楽しいこと」「嬉しいこと」ばかりがいいとされ、「困難に耐える」とか「刻苦勉励」とかそういうものは流行らないようだ。たしかに、かつての日本では「忍耐」「努力」「試練」「苦労」・・・といった「巨人の星」ばりの厳しさばかりに比重が置かれ、「楽しい」「おもしろい」「感動」・・・といったことはないがしろにされてきた。その反動であるかもしれないが、そればかりでいいのだろうかとよぎることがある。厳しさ、苦しみを乗り越えてこそ大きな喜び、感動がもたらされるということもある。

その点、遺伝子の権威、村上和雄教授はバランスがとれているところが共感がもてる。到知2007年6月号、千日回峰行を果たされた塩沼亮潤住職との対談より、村上教授の言葉を紹介します。

私は「心を変えたら遺伝子の働きが変わるか」という研究をやっていますが、人間の遺伝子というのは、働いているのは全体の5パーセントだけで、あとの九十五パーセントは眠っているんですね。楽しいことや嬉しいこと、笑いといったものが眠った遺伝子のスイッチをオンにすることはこれまでの研究である程度分かってきましたが、私は厳しいことでもスイッチはオンになるような気がします。

(中略)

塩沼さんのような凄まじい行とまではいきませんが、研究者にもいろいろな困難があったり、競争があったりします。自分でも不思議に思うような力を出せる時というのは、一つにはそういう厳しい状況に追い込まれた時だったように思いますね。

 ぼくなんかでも、仕事をぎりぎりまで追い詰められて、思わぬアイデアが出たり、いい結果に行き着いた経験がある。さらに、村上教授は利他の心が大事だという。

 それから利他の心が芽生えた時。最初は「何かを突きとめたい」とか「世界に先駆けてやってやる」という研究者の夢というか、野望で始めるんですよ。でもいつしか「この研究を成功させたら、高血圧で苦しんでいる人たちに喜んでもらえるかもしれない」とか、そういう利他の気持ちに変わってきて、その時にものすごい力を出せたと同時に、サムシング・グレート(人智を超えた偉大な存在)を感じました。

 だから今日の日本のように暖衣飽食、自分が好きなだけ食べて好きなだけ寝るという環境は、遺伝子のスイッチが入らないのではないかと考えています。私はぜひそれを証明してみたいと思っているんです。(前掲の雑誌『到知』より)

「世のため人のためにあらゆる困難に耐え、刻苦勉励して志を遂げる」という昔からの日本人の生き方も、村上教授の理論からすると、遺伝子のスイッチをONにする生き方だったのだ。

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September 01, 2008

天はみずから助くるものを助く

サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』の文語訳と口語訳をあえて縦書きにして比べてみました。

【文語訳】
「天はみずから助くるものを助く」といえることわざは、確然経験したる格言なり。わずかに一句の中に、あまねく人事成敗の実験を包蔵せり。
(中村正直訳『西国立志篇』より)

【口語訳】
「天は自ら助くる者を助く」
この格言は、幾多の試練を経て現代にまで語り継がれてきた。 その短い章句には、人間の数限りない経験から導き出された一つの真理がはっきりと示されている。
(竹内均訳『自助論』より)

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December 17, 2007

世間の評価を気にしていたのではほんとうの自分になれない

                                       

ぼくが、全国的に知られている

お笑い番組をやっていたとき、

当時、亡くなった母は入院していた。

6人部屋の病室に入ると、

「あの人が、あの番組の台本を書いている人?」

「へえ~」

「そういう人って初めて見たわぁ」

とささやき声が聞こえてきたものだ。

母はうれしそうにしていた。

その後、子ども向けのアニメのシナリオを

担当した。

これは、ぼくのかねてからの目標であり、

念願であった。

構成だけでなくシナリオも目指すものにとって、

構成台本とシナリオとの間にある壁は

シナリオの長さが短いほど

一見小さいようであるが実は大きい。

仕事相手も新しく開発しなければならない。

それがようやく突破できたのだ。

ところが、誰もほめてくれない。

中身のうんぬんではなく、

それをやったことに対して、

かのお笑い番組のように

羨望の目でみられないどころか、

自慢げにいったところで、

「あっ、そう。」

で片付けられてしまうことがおおかった。

自分の気持ちと世間の評価というのは

こんなにも違うものなのか、

いまさらながら愕然とした。

もしそのとき生きていたら、

母ならば

やはり喜んでくれていただろうが…。

さて、今は・・・。

お笑い番組やシナリオをやっていないどころか、

ただの浪人?

仕事は少しは与えられたとしても

世間様がうらやましがる、

仕事の種類を聞いただけで

評価されてしまうような

ことはしていない。

むしろ、世間的には

見下されがちな立場に

あるといえるだろう。

でも、過去のどの時期よりも

今の方が、心は充実をしている。

残りの人生があと三十年ならば

三十年間というものを

この心境の延長線上で

死ぬまで精進しながら生き続けたい。

ところで、

もし母が生きていたら・・・

(金の方は心配したろう。

その点は申し訳ないのだが)

今の心境については

やはり理解してくれていたかもしれない。

生前、母はよく

「別に出世しなくてもいい…。

しあわせに暮らしてくれれば・・」

と繰り返していたくらいだから。

                                           

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December 15, 2007

相対を脱して絶対に生きる基準

亡くなった父より

恥ずかしくない生き方をしろと

言われてきた。

今、自分が生まれたときの

父の年齢になって思う。

何に対して、

恥ずかしくない生き方をするのか

ということを。

それが、つまり、

「相対」に生きるか?

「絶対」に生きるかの分かれ目だと。

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April 10, 2007

人生は思うようになる

前の記事に、「思うようにならない」とう記事を書いたが、その内容はそういうことではなくても言霊がよくないから、付け加えたいと思います。

                                                                        

きっと、人生は「思うようになる」のである。「思うようにならない」のは、自分の人間がそこまで達していないから「思うようにならない」のであって、「思うようになるような人間」になれば「思うようになる」のである。

                                                                              

おそらく神様は、人間にできないことを思わせないのであって、それをその人が「思っている」ということは、できるということなのである。そして、人間が成長をすればするほど、ますます自然と欲望丸出しのやるべきでない、できないことは思わなくなるのだろう。

                                                                                                                                                      

言い換えれば、正しいことを思えば、必ず「思うようになるのである」。正しいことしか常に考えないような人間になれば、きっと、この地上に叶わないものはないというくらいの域に達することができるのだ。

                                                                                                                                                   

だから、大切なのは「思うようにならない」なら「思うようにならない」ありのままの現実を受け入れ、「思うようになれるのだ」ということを信じて、「思うようになりたい」と思って、努力していけば必ずなれるのだ。

                                                                                                                                                 

前の記事で書いたことを言い換えれば、「思うようにならない」ときでも、だからこそ、「あせらない」ということなのである。

賭け事でも、なんでもそうであろうが、自分に風が吹くときもあれば、まったく風が吹かないときもある。

「思うようにならない」ときは、じたばたせず、いい意味で諦めて、心をできるだけ平静にして、努力ができるときに、「思うようになる」のだと信じて、「思うようになる人間」になるための努力していけばいいのだ。

                                                                                                                                                 

こうやって、今日も自分で自分に言い聞かせるモモタロウであった・・・。

                                                                                                                                                

                                                       

以下、京セラの稲盛和夫さんの文章(『いかにして自分の夢を実現するか』の訳者解説)より

成功しない人は、成功した人のすばらしい話を聞いても、「そんなお金がない」とか、「そんな余裕がない」とか、「人材、技術がない」とか、とにかく、自分にない条件、自分にできない理由を並べて、「どうすればいいのか教えてほしい」と言います。

 しかし、成功する人の考えることは、皆、同じです。それは、まず、「そういうものがなければならない」と、思うのです。まず、思わなかったら、けっしてそうはならないのです。

(中略)

 「人生というものは思うようにならないものだ」とよくいわれますが、そうではありません。思うようにならないと最初から思っているからうまくいかないのであり、ここを否定したのでは、もう、そこに曇りがありますから、思うどおりにはなりません。

 中村天風さんという昭和43年に亡くなった、おそらく昭和ではナンバーワンの哲学者がおられます。このかたは、自分が思うとおりに、心に描いたとおりに世の中はなると言っておられます。運が良いとか悪いとかいうことも、心に描いたままだと言っています。

 そして、ゆめゆめ、自分の心に、不安とか、疑念とか、怒りとか、嫉妬とかが入ってはいけない、つねにポジティブで明るい思いを描き続けなさいと語りかけています。

          

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December 27, 2006

自分の“天”を守るためにウソをつく

自分を守るためにウソを徹底的につく。そんなこともあっていいのではないかとふと思ってみた。

その自分とは欲望を拡大させて生きる自分ではなくて、天が与えた自分である。

天が与えたままに生きることが尊いのか、それとも、それを裏切ってでも、社会の中で生きるのが尊いのか・・・。

天が与えたままを大切にして、社会の中で生きて行くには、時にはウソをつかなくてはならないこともある。それは社会がまだ、天に従って作られていないから。だから、そのウソは決して利己的なウソではない。時には、他の人の中の“天”を守るためにウソをつくこともあるだろう。

それには、まず、自分の中の“天”とは何であるのか知る必要がある。人間の中の“天”とは何であるかをもっと学びたい。

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December 20, 2006

時間と空間という海苔とごはんはお好きですか?にぎっているのはどなたですか?

ぼくたちは時間と空間に

オニギリのように押し込められている

存在だ。

だから、具になりきるしか道は無い。

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December 14, 2006

他人から評価されなくてもタマはタマだ

20061206_016

おんどりゃ~!このくそったれが・・・

20061206_017

ひとから評価されずに生きてどこが悪いんじゃ!

20061206_020

ひとから評価されなくても俺は俺なんじゃ!

20061206_019

放っとけ!

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