November 03, 2011

「真心」を知る

生きていくことは、ほんとうみっともないことだ。

先日も、相手の真心に応えようとして、オーバーなジェスチャーをつけて、第三者から見れば迎合するようなことを言ってしまった。

明らかにやり過ぎである。またしても恥ずかしいことをしてしまった。自分に「相手の真心にこたえようとしたのだから、これでよかったんだ」といい聞かせるが、「五十が目前にせまろうとしている年齢となって何をやっているのだ」という心の声が湧き上がってくる。

「真心を込めたのだからいいだろう」という考えは、そもそも手前勝手な考え方である。だから真心を込めても、相手に伝わらなければ意味がない。…と言い切りたいところだが言い切れないところがある。真心を込めるとは別の言葉でいえば気持ちを込めるということでもある。ほんとうの真心というのは、むしろ「相手に伝わろうが伝わるまいが、その対象に気持ちを込める」ことかもしれない。

豊臣秀吉こと木下藤吉郎が草履とりのとき、信長にわかるように草履をあたためていたのではない。わかろうがわかるまいが、ともかく、主君の足をあたためることに腐心した。そこを信長は見た。僕はそう思う。そして、そんな主君だからこそ、「士は己れを知るものの為に死す」(『史記』)。いっそう藤吉郎は尽くしたのであろう。

こう見ると、誰かの「己を知る」とは決して能力ではない。目に見える能力とは誰にでもわかるものである。そんなところに目をつけられたとて、当たり前であり、嬉しくもなんともない。能力の蔭ににじむ「心」をわかってもらえたときにこそ跳び上がりたいほどの喜びを感じる。

己の全能力・生命を投げ出してでも、対象に尽くす。切実な思いはわかってもらおうと思ってもわかってもらえるものではなく、わかってもらおうとしてやるとウソになる。もし言葉にしてしまったならば、すべては泡沫のごとく消えてしまう。だからこそわかってもらえたときは嬉しい。

相手の「己を知る」というと、どうもあたまで知覚することのように傾きがちであるが、そうではないようだ。むしろ「感じる」の方がはまる。「真心」は「知る」ものではなく、「感じる」もの。さらに「わかる」もの…「体全体で」である。いや、「体全体で」という言葉が出てきた以上は「受けとめる」ものといいたい。「士は己を受けとめるものの為に死す」と…。

史記では「士は己れを知る者ために死し」の後に、「女は己れをよろこ(説)ぶ者の為にかたち(容)づくる」と続く。諸橋徹次の『中国古典名言事典』は「女子は、自分を愛し喜んでくれる人のために容色をととのえる」と訳している。これは「女子は、自分の全存在を受けとめてくれる人のために」とした方が重みは増す。ほんとうに愛するとは、つまみ食いのように都合のいいところだけを喜ぶことではないはずである。

自分もはやく、人の真心を受けとめられる人間になりたいし、「真心」をさりげなく込められるようになりたい。「知命」まで後三年と迫っている年齢で何をやっているのだという声がどこからか聞こえてきているが…。

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November 04, 2009

自己評価とブレないこと

日曜日に

お恥ずかしい大失態を

やらかし、

そのときはなんとか切抜けたものの

あとになって

自己嫌悪が生まれている。

自己評価が低くなると、

自分の目指していることが

ふさわしいものかどうかと

迷いだす。

すると、それまで

当り前にやってきた

その志に到達するための

自己鍛錬も無意味なものの

ように思え、

できなくなってしまう。

この状態を一言でいえば

“ブレる”

もしくは

“ブレる寸前”というのだろう。

偉大な事を成し遂げた人は

みな「ブレない」という。

「ブレない」ということは

自分の「自分への見方」が定まっている

つまり、自己評価が高い

ということでもあろう。

日曜日の恥ずかしい失態を

どう見れば自己評価が下がらないか

もう一度、見直してみよう。

                                        

                                       

いのちのちから

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October 04, 2009

浅はかで軽薄な自分・・・

只だ軽薄の心を脱し尽せば、便ち天徳に達す可し。

                 『呻吟語』

                                                                              

浅はかで、軽薄な自分を脱するがために

『呻吟語』を読むのだということを心に刻み忘れないよう、

この言葉をここに記す。

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September 25, 2009

いつでも平静に・・・

怨むべく・怒るべく・弁ずべく・訴ふべく・喜ぶべく・驚くべきの際にあたりて、その氣はなはだ平らかなるは、これは是れ多大の涵養なり。 『呻吟語』存心より

「怨むべきとき、怒るべきとき、弁解すべきとき、訴えるべきとき、喜ぶべきとき、驚くべきときにあたって、気持ちを平静に保とうとするのは、これはこれで大いなる修養になる。」(筆者訳-拙い訳文で失礼。あくまでも本文-読み下し文を読むための参考程度にしてください)

これは、小林正観さんの主張と似ています。

何かあるとすぐ落ち込む人の共通点は、ほめられるとすぐに舞い上がってしまうことだそうです。

どんなときでも、激さず、騒がず、怒らずにいられるようになりたいものです。

自然育児&子育てショップ・いのちのちから

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August 22, 2009

心を磨いていくとほんとうの願いに気づく

心がきれいであると願いはかなうという。

もしかしたら、

心がきれいだと、自分のほんとうの願いに

気づく。

だから、かなうのではないか。

その人が心の奥底にもっている

ほんとうの願いは、

顕在意識で強く思おうが思うまいが

かなうようになっている。

今はそんな気がして仕方がない。

とすると、願いはもたなくてもいいから

ただただ心をきれいにすることだけを

心がけていけばいい。

昔の日本人(江戸時代以前)の多くは、

そういう生き方をしていたはずだ。

もちろん、何か願いをもって生きることも

素晴らしいことだと思う。

初めはほんとうの願いとずれていても、

顕在意識が決めた願いに向かっていく中で、

心が磨かれ、だんだんと真の願いと

一致していくであろう。

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July 29, 2009

いま、はいつくばってる俺が俺

みっともなかろうが、

人から見下されようが、

人から認められまいが、

業績がなかろうが、

汚かろうが、

卑しかろうが、

ど馬鹿であろうが、

どヘタであろうが、

金がなかろうが、

いま、この場で生きている、

俺が俺なんだ。

この俺が生きているんだ。

誰の指図を受けよう。

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

ココを基準に生きていけばいいのかもしれない。

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July 28, 2009

40代の剣道と高校時代の剣道

高校時代まで剣道をやっていて、

40も半ばになった今、

子どもといっしょに始めてみました。

気づいたのは、高校時代までやっていた

自分の剣道はもう終わっていたこと、

そして、今から始めることは

新しく40代半ばの剣道をはじめると

考えた方がいいということでした。

そういう意味で、認識が甘かった・・・

今後、続けるか否かは思案中。

ただ、子どもは楽しいようなので、

自分だけやめるのはやめずらい。

やめるべきだと判断したら、

そうするしかありませんが・・・

                                                                                 

                                                               

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July 24, 2009

監視カメラの自分~なんてみっともないのだろう・・・

生きていくのは、ほんとうにみっともない。

最近は、監視カメラがあちこちに設置されていて

通り過ぎる自分の姿が見えてしまうこともある。

その姿のみっともなさに思わず目をそらして

しまうことも多い。

でも、あらゆることは今ここにいる自分からしか

スタートできないとするならば、

監視カメラに映った自分を見ることを

しなければあらゆることは始まらないという

ことになる。

ただ、監視カメラに映った自分がほんとうの自分で

あるかどうかという問題はある。

だから映った姿を見て、直観で自分の本質を見る努力は

した方がいいであろう。

そうしていると、案外、監視カメラに映った自分が

みっともなくもないもんだなと思えてくるものである。

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June 30, 2009

そこから先は神の領域 その2

―そこから先は神の領域―

 この言葉を、自分の中にいつも思い出すように生きています。やるべきことは“うたし(うれしい・たのしい・しあわせ)”な人、きれいな人、素直な人、謙虚な人、誠実な人という五つの人格を目指すことですが、「そこから先は神の領域」だということです。

 結果として数字や売り上げがこうなるに違いない、というのは驕りです。「私」にできることは、その五つを目指すことであって、「そこから先は神の領域」なのです。

 だから、売り上げがどうの、という話になると、神の領域に踏み込んでものを考えている、ということになるのかもしれません。

          小林正観著『神さまに好かれる話』より

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そこから先は神の領域 その1

自分の人格として、手の届く範囲の身の回りをきれいにする、謙虚に物事を考える、誠実に生きる、というのは自分の手の内にあることですが、「そこから、何が生まれるの」「それから先、自分の人生はどうなるの」ということについては、「そこから先は神の領域」なのかもしれません。

                小林正観著『神さまに好かれる話』より

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