地球のためにまずは自分の機嫌をとることだ。
久しぶりに書く。
久しぶりに書く。
ロケで、ある凶悪な罪を犯した者の家の近くを通り過ぎたのは、もう15年近く前になるだろうか・・・。そのとき、愕然としたのは、自然が豊かだったということだ。その頃から自然回帰への志向は日本人の間に広まっていて、自分も自然信仰じみた、動植物や山、川・・・から離れたからこそ人間はおかしくなってきたのだという信念があった。
ところが、罪を犯した“彼”は豊かな自然の中から生まれていた。これはなんなんだ、どうしたというのだ・・・。そのときから、自分の中に“命題”が出来上がってしまった。ところがあるとき、“彼”は自然の中で生きていたけれど、自然から離れていたのではないか。家の中に閉じこもり、自然より隔離されているのと同じような生活をしていたからこそ、そうなってしまったのかもしれないということに気づく。
多かれ少なかれ現代人は自然より隔離されている。自然豊かな地域でさえそうなのだ。都会に住む者は、完全に自然と隔絶してしまったといっても過言ではない環境に住む者が多い・・・。となると、その離れた自然とどうしたら、また近づくことができるのか。ただ、自然豊かな地域の緑のすぐ側に住めばいいというものではないことは、犯人の“彼”の生活環境を見ればわかる。
あるとき、樹木医の方にインタビューをする機会を得た。都会人が自然と触れるにはただ木々のそばに暮らしているだけではだめで、日々、その木々のうち一本でもいいから“観察”をすることが秘訣だということを教えてくれた。普通は「木を見て森を見ず」で森を見ないことを否定されるが、この場合「森を見て木を見ず」ではだめで「森よりも木を見る」ことが必要というのだ。
ただ、実際その“観察”をやろうとしていまだにできていないのだが、一本でも木に集中する時間を毎日つくるというのは、よほどそれが好きでもなければできないことだというのがわかった。また、やらざるを得ない環境になければやらないのは、痛感していることで、結局はやらざるを得ない環境にいたらなかったのでやらないで今日まで過ぎてしまった。
だから、いつまでも自然との距離は縮まらないのだけれども、あるときほんの数分にして縮まるどころか一体になれたような感覚の瞬間を得た。
それは、わが家の近くの川沿いの街路樹の下を、散歩した時だ。他の通行人には聞こえないようにこうつぶやきながら歩いていた。「幸せだなあ。豊かだなあ。有り難いなあ」。それを感情を込めても込めなくてもいいので何回も何回も繰り返し言いながら歩いたのである。すると、いつかすーっと体の中に自然の風や緑や花や日の光がからだの中に入ってきたような気がして、ほんとうに気持ちのいい、まるで自分が自然そのものといったような感覚になれたのだ。これはたとえどんなに豊かな自然の中を普通に歩いていても決してなかったことであった。
これでようやく命題が解けた。自然との距離を縮めるためには、自然の近くに行き物理的距離を縮めることではなく、自然に対して心を開くことこそが大事なのだということを。人間と人間とのコミュニケーションと同じだ。ともに溶け合うには、まずは双方が心を開かねばならない。ただ、人間と自然とのコミュニケーションは人間のみが心をあえて開けばよい。なぜならば、自然はいつでも心を大きく開きっぱなしだからである。
自分の本性に従って生きることは、“自然”です。
背伸びせず、無理をせず・・
こうして、一番、身近な“自然”を大切にしましょう。
実は、それはただの“へりくつ”じゃなくて、
環境問題とも密接に関わりあっているのです。
なぜなら、みんながみんな、
自分というものに“足る”を知らないからこそ、
無限の欲求に身を任せ、地球を破壊しているのですから。
ただ田舎における農業などの体験というものは
そう簡単にできるものではない。
(※前の記事より続きます)
時間と金が必要になる。
たまにしかできない
(現状では、我が家は厳しい)。
すると、“土”ってなんだろうという
問いかけに戻ってしまう。
我々はどうやって“土”に戻ればいいのか・・・。
ぼくは思う。人間の体は“土”で育った
植物やその食物を食べて成長した“動物”を
食べて成育し生命を保たれる。
そして、死んで本来は“土”に戻っていく。
こう考えて見ると、人間の身体は
“土”ととらえていいのではないだろうか。
だから、病気などで自分や身近な人の“体”と
向き合うことは“土”に触れるということである。
医者まかせにするのではなく、自ら“体”に
向かっていくということは、
“土”から学ぶのと同じくらい意味があることで
あるに違いない。
また、子育ても、人間の体‐子供と正面から
向き合うという意味で、“土”に触れるということである。
子供は大人と比べて純粋である。
だから大自然を体現している。
(自分は父親だが、自分の立場で)
子育てに参加することは大いなる学びがあると考える。
そして、自然・環境。東京の郊外にしては、
我が家の周囲には自然が豊かである。
遠くへ行けなくても、その身近な自然にできるだけ触れる、
また関係を深くしていくことは、
当然、“土”に触れるということにつながる
(また写真などでその美しさ、良さをほんの
ちょっぴりでも皆さんと分かち合いたいという思いもある)。
またできるだけ、たとえ初めは身近なところより始めても
園芸や農業など直接、土に触れる機会を作っていきたいと
考えている。
こういう意味合いもあって、
「キビダンゴをあげる!」で取り上げるテーマを、
健康(病)
子育て(教育)
自然・環境(農業)
として、あらためて整理したいのである。
そして、“土”と向き合う中で学んだことを表現したい、
またそこから出た疑問を皆さんとともに考えたいと思うのである。
もちろん、農業に“土”はつきものである。
しかし、農薬で汚染された“土”は、
ダグラス・ファー氏の言う“土”とはいえない。
ぼくは地元の市民農園を申し込んでいて
順番が回ってきたのだが、
農薬に汚染されていることを知り、
やめてしまったことがある。
庭やベランダなどで行うガーデニング・園芸は、
その規模にもよるのだろうが、
ほんとうに土に触れているといえるだろうか
(ただベランダでも、やらないよりはいいだろう。
自分もそこから始めてみたいとは思っている)。
“土”の上を歩くという方法もあるのだろうが、
特に都会では“土”の道があまりない。
あっても、靴底が化学物質で“土”と遮断されてしまう
(ただ、それでもできるだけ歩いた方がいいだろう)。
裸足で歩くのは、ガラスの破片などが怖くてできない。
だから、かの養老猛司氏も言っているように、
時折、田舎に行き自然農法などを体験したり、
森林の中で遊ぶのはとてもいいことなのだろう
(うちの近所でも、有機農法をされている農家があって、
年に1,2回子供とともに芋ほりをさせて
いただくことがあるが素晴らしい体験である)。
(次回の記事に続く)
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