やはり明治という時代が日本の分岐点になったと思う。
西欧文明を取り入れて、次第に、
日本という“自分”を置き去りにしてしまった時代。
その明治に日本のなにを置き去りにしたか・・・と
考えることは、日本のアイデンティティーを確認する上で
欠かせないことだと思う。
なにを置き去りにしたのか、誰を置き去りにして、
忘れようとしてきたのか・・・。
歴史の教科書にもあまりのっておらず、
であるにもかかわらず、日本人としての根幹を
体現して生き抜いた人物・・・、
私の浅はかな主観を述べたい。
ここに2人の男がいる。1人は右翼の巨頭として
戦後、日本人がその記憶から消されつつあった
頭山満。
そして、宗教家であり、戦前、国家により壊滅的な弾圧を受け、
戦後、その信者や一部の人をのぞいて、
忘れ去られていった出口王仁三郎。
片方は、現在から見れば右翼であり、片方は宗教である。
どちらも、戦後民主主義の日本から見れば、
明治の“闇”の部分に思える。果たしてそうなのだろうか。
彼らは日本を変えよう、改革しようとしたのではなくて、
“日本を守ろう”としたのではないか。
そして、彼らを教科書にものせず(私の知る範囲では・・・)
歴史の片隅においやってしまったことと、
戦後、日本人が日本人であることを、つまり自分であることを
放棄してしまったことは、
同じところから発しているのではないだろうか。
頭山の思想のベースは、陽明学。
そして出口はもちろん出口なおの大本教(神道)である。
大本教を日本古来の神道と同一視するわけではないが
そこには、やはり、日本の根幹に流れている一貫したものが
あると信じる。
頭山の弟子、中村天風はよく頭山から
「自然の森羅万象とともに生きない奴はダメだ」
と言われたそうだ。
この思想は、森羅万象、自然の中に神がいる
神道とも通じているように思える。
西欧文明では人間は自然と対立する。
日本をはじめ東洋では、人間はあくまで自然の一部である。
もしかしたら日本人はその根幹を捨て去って
しまったがゆえ、自分を失ってしまったのではないか。
そのものが本来もつアイデンティティーに沿って生きる
ことは、その人間に天から付与された
「自然とともに生きる」ということでもあろう。
頭山満も出口王仁三郎もともに「巨人」と呼ばれた。
そして彼らは、出会っている。
大人物は大人物を知る。同時代に生きた者として
必然のことかもしれない。
先週の記事(11月16日「ある人物史 佐藤一斎から稲盛和夫」)
にも書いたが
自分が学びやすいという観点もあり、
頭山満から入って、その流れの中で学んでいくと、
日本人が置き忘れてきたものが少しは
見えてくるような気がする。
当然、その流れは、出口王仁三郎に行き、
そこから、生長の家の谷口雅春、
(先週コメントを書いてくださった“ぽっぷさん”、
ありがとうございます)
世界救世教・自然農法の創始者、岡田茂吉へと行く。
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