October 21, 2009

志少しも退かず~沢庵 (1)

常の凡夫、信力なくして三年五年に知ることに非ず、

学道の人、十年二十年、十二時中、そつとも怠らず、

大信力を興し、知識に参じて、辛労苦労を顧みず、

子を失ひたる親の如く、立てたる志少しも退かず、

深く思ひ、切に尋ねて、

終に仏見法見も尽き果てたる所に到りて、

自然に之を見ることを得るなり。   沢庵『太阿記』より

                                                                                                                                                            

                                                                                                                                                             

いのちのちから

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January 25, 2009

鴎外の描いた大塩平八郎はなぜあそこまで「冷たい」のか?(2)

                                                                                                                      

(前回よりの続き)

大塩平八郎の魂の書『洗心洞箚記』はまだほんの一部を覗いただけであるが、次の箇所をみただけでも、この問いの答えへのヒントが隠されているように思った。

訳文で紹介する。

                                                         

 孔子が畜っていた犬が死んだおり、子貢に車蓋でくるんで埋葬させた。しかし、成人が家畜を埋葬するにあたり、召使いにさせないで、高弟の子貢にさせたのは、あまりにも犬ごときの埋葬を重視しすぎている。わたしはかねがねこのことを疑問におもっていた。ところが、自分の畜っていた犬が死んでみると、はじめて、高弟に埋葬させたのが重視しすぎではないことに気がついた。ああ。

         吉田公平訳『洗心洞箚記』(タチバナ教養文庫より)

                                                           

 すなわち、平八郎が、自分の家の飼い犬が死んでひどく悲しんでいるのである。鴎外の短編でも描写されているように大事にのぞんであそこまで沈着冷静でいられたのは間違いなかったであろうが、その彼が飼い犬が死んで「ああ」と嘆息をもらしているのである。

そもそも、彼が反乱を起こしたのは、悪政に苦しみもがく、貧しい民たちのためではなかったのか。

                                                         

森鴎外は、この作品『大塩平八郎』の附録にこう書いている。

                                                       

 平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。

平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。

                                                        

大塩平八郎が哲学者であることは認めていても、この文章をみると、かれの行ったこと、一世一代の事業については、少なくともその動機についてもまったく認めていないようである。

鴎外はこの作品を描く前に、大塩平八郎について講演まで行ったそうであるが、彼のことが“嫌い”だったのではないかと勘ぐりたくなる。

                                        

そういえば、森鴎外は出世のために時の権力者、山県有朋にすりよったという、ある意味、大塩平八郎とは正反対の一面をもった男であった。平八郎の本質は最後まで理解できなかった、いやまともには見つめられなかったのかもしれない。

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鴎外の描いた大塩平八郎はなぜあそこまで「冷たい」のか?(1)

森鴎外が書いた『大塩平八郎』という短編がある。

                                        

                                         

そこには大塩平八郎の風体がこのように書かれている。

身の丈五尺五六寸の、面長な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉は吊つてゐるが、張の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。廣い額に青筋がある。髷は短く結めて結つてゐる。月題は薄い。一度喀血したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪と云われたと云ふが、現にもと頷かれる。

                                     

(※一部、旧仮名遣いを新仮名遣いに変えました)

この描写からは、大塩平八郎の情熱とか、弱者へのいたわりの心とか人間の温もりは感じられない。「口の悪い男には青瓢箪と云われたと云ふが、現にもと頷かれる」と「青瓢箪」を肯定したままの平八郎になっている。ややもすると、情のうすい、書物ばかりを読んでいる厳格な学者といった印象のみをうける。

                                       

                                       

これはこれでいいとして、作者のこの大塩平八郎へのさめざめとした描写は最後まで貫かれる。「大塩平八郎の乱」をただ客観的に冷静に描いたのだといえばそうに違いないが、これでは、彼が自分がしたいがゆえに門人や周囲の人間を巻き添えにして謀反を起こし、多くの者を犠牲にしてしまった。それだけのじつに利己的な冷酷な人間だったと思われても仕方がないような作品になっている。

                           

                                        

           

                                        

果たして大塩平八郎とは、ただそれだけの人間でしかなかったのだろうか。

                                       

                                          

(次回に続く)

                                                        

                                                               

                                                         

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January 14, 2009

大塩平八郎は『呻吟語』を愛読していた。

西郷隆盛が傍線を入れて熟読した

大塩平八郎の『洗心洞箚記』を

西郷の死後、薩摩の家を訪ねて譲り受け、

繰り返し読んだのが、頭山満である。

私は幕末明治の人物の中で

もっとも尊敬する一人が西郷だし、

その西郷を生涯敬慕してやまなかった

頭山満に魅力を感じてやまない。

                                         

                                                                                                                                                         

最近、『洗心洞箚記』(タチバナ教養文庫)を

購入した。そして大塩平八郎が、

呂新吾著『呻吟語』を愛読していたことを知った。

以前より『呻吟語』に惹かれており、

今も、じっくり味読しているだけに“感激”した。

                                                                                                                                                               

この本にはこうある。

                                                                                                                                                         

呂新吾の『呻吟語』は、大塩平八郎を陽明学に導く契機になった、処世哲学をのべた秀逸な書である。処世哲学の書としては『菜根譚』も著名であるが、『実政録』という実務完了の基礎教本をも著した呂新吾に対しては、実務に苦労した大塩平八郎は共感するところが多かったにちがいない。

                                                                                                                                                         

ところが、ずっと以前に読んだ

安岡正篤の『呻吟語を読む』にも

大塩平八郎が『呻吟語』に強い影響を受けたことが

書かれていることを最近知った。

読み流して

記憶に残っていなかったのだ。

一方で、現在は同じことに感激する。

時機によって、

こうも違うものなのだ。

                                                                                                                                                                   

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September 02, 2008

文語と人物



文語こそが、



幕末明治の人物である。



今更ながら気づく。

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April 18, 2008

儒教は強きもののためか

儒教というものは、

科挙(※)に取り入れられてきたように

しろうとめに見て、強いもののために

歴史を刻んできたように思えますね。

高層をながれる儒教の低層を

老荘がつねに、たゆることなく

ながれてきたというのも

一方で、よわきもののための哲学が必要になった

ということがいえます。

ところが中江藤樹が己を知るために

学んだということをきくにつけても、

ほんとうに、儒教は強いものだけが

より強くなるためのみに役立ってきた

のかという疑問が湧き出てきます。

己を知るという事は、どんな者であれ

己の弱さ、突き詰めれば人間の

弱さを知るということに連なるからです。

おそらく、しろうとだからこそ、

儒教は強きもののためという

その印象に翻弄されるのであって、

鑿でこつこつ掘り下げて

いつしかその最深部を突き刺すに至れば、

あたたかく、やわらかな流動物が

泉のごとくとめどなく

噴出してくるような気がしています。

老荘の哲学を

“しなやか”に生きているものは、

むしろ強すぎるくらい強くなければ

生きていけないだろうと

想像できるのと同じように。

                                                                          

                                               

                                         

(※)科挙―中国で行われてきた官吏登用試験。

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December 14, 2006

武士道とは死ぬこととみつけたり

武士道とは死ぬこととみつけたり 『葉隠』

現代の日本人が武士道を語るとき、

戦争中、利用されたとして

一番、語りたくない言葉。

しかし、個人も国家も、一番認めたくない

痛いところを見つめ、認めてこそ、真の成長ができる

ぼくは、新渡戸稲造の『武士道』も素晴らしいが

『葉隠』のこの言葉を抜かしては、武士道は語れない。

と思っている。

宮本武蔵も『五輪書』にこう書いている。

武士は只死ぬるという道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也

死ぬるという道を嗜む」、すなわち、

日頃から、いかに死をいさぎよくするかということを心掛ける

ということが、武士どころか、僧はもちろん、

女性、百姓、・・・あらゆる人にとって

大切なことであると『五輪書』に書いているのである。

みんな誤解しているが、

一見、「死を恐れてはいけない」といって

「死を強いる」ことと、

自らの内側で「死を恐れない」のとは

まるっきり違うということだ。

人間にとって一番恐ろしい死を恐れなくなってこそ、

現世において何者にも束縛されない

真の“自由”を得られる。

その自由を得るために、武士たちは、

剣術や禅、儒教などで自らを修養した。

現代の日本人にとって、もっとも必要なのは

この“心の自由”だと思う。

現代において、自殺するほとんどの人は、

これと全く反対の心理状態だろう。

死が怖く、死に目をつぶりながらも、

それしかなくて死んでいく。

追い詰められて自殺する人の視野は極度に

狭くなってしまっている。

(仕方なくそうなってしまったのだろう・・・)

しかし、

“死への執着”から解き放たれた人の視野-心は

世界に向かって全面的に開放されている

われわれ、戦後の日本人は、

武士道とは死ぬこととみつけたり

から目をそらし、

わざと見ないようにしてきたからこそ、

おかしくなってしまったのではないか。

つまり、われわれは“死”を隠し過ぎてしまったのだ。

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December 07, 2006

誰もが“一人でいても淋しくない人間”になれる

                                                               

頭山満(1855-1944)の

「一人でいても淋しくない人間になれ」

という言葉が、解釈はどうあれ、

それを読む多くの人の心を励ますのは、

「誰もが“一人でいても淋しくない人間”

になろうとすればなれる」

ということを教えてくれるからである。

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November 22, 2006

頭山満、出口王仁三郎に日本人のアイデンティティーを求める

やはり明治という時代が日本の分岐点になったと思う。

西欧文明を取り入れて、次第に、

日本という“自分”を置き去りにしてしまった時代。

その明治に日本のなにを置き去りにしたか・・・と

考えることは、日本のアイデンティティーを確認する上で

欠かせないことだと思う。

なにを置き去りにしたのか、誰を置き去りにして、

忘れようとしてきたのか・・・。

歴史の教科書にもあまりのっておらず、

であるにもかかわらず、日本人としての根幹を

体現して生き抜いた人物・・・、

私の浅はかな主観を述べたい。

ここに2人の男がいる。1人は右翼の巨頭として

戦後、日本人がその記憶から消されつつあった

頭山満。

Photo

そして、宗教家であり、戦前、国家により壊滅的な弾圧を受け、

戦後、その信者や一部の人をのぞいて、

忘れ去られていった出口王仁三郎。

Photo

片方は、現在から見れば右翼であり、片方は宗教である。

どちらも、戦後民主主義の日本から見れば、

明治の“闇”の部分に思える。果たしてそうなのだろうか。

彼らは日本を変えよう、改革しようとしたのではなくて、

“日本を守ろう”としたのではないか。

そして、彼らを教科書にものせず(私の知る範囲では・・・)

歴史の片隅においやってしまったことと、

戦後、日本人が日本人であることを、つまり自分であることを

放棄してしまったことは、

同じところから発しているのではないだろうか。

頭山の思想のベースは、陽明学。

そして出口はもちろん出口なおの大本教(神道)である。

大本教を日本古来の神道と同一視するわけではないが

そこには、やはり、日本の根幹に流れている一貫したものが

あると信じる。

頭山の弟子、中村天風はよく頭山から

「自然の森羅万象とともに生きない奴はダメだ」

と言われたそうだ。

この思想は、森羅万象、自然の中に神がいる

神道とも通じているように思える。

西欧文明では人間は自然と対立する。

日本をはじめ東洋では、人間はあくまで自然の一部である。

もしかしたら日本人はその根幹を捨て去って

しまったがゆえ、自分を失ってしまったのではないか。

そのものが本来もつアイデンティティーに沿って生きる

ことは、その人間に天から付与された

「自然とともに生きる」ということでもあろう。

頭山満も出口王仁三郎もともに「巨人」と呼ばれた。

そして彼らは、出会っている。

大人物は大人物を知る。同時代に生きた者として

必然のことかもしれない。

先週の記事(1116日「ある人物史 佐藤一斎から稲盛和夫」)

にも書いたが

自分が学びやすいという観点もあり、

頭山満から入って、その流れの中で学んでいくと、

日本人が置き忘れてきたものが少しは

見えてくるような気がする。

当然、その流れは、出口王仁三郎に行き、

そこから、生長の家の谷口雅春、

(先週コメントを書いてくださった“ぽっぷさん”、

ありがとうございます)

世界救世教・自然農法の創始者、岡田茂吉へと行く。

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November 16, 2006

ある人物史 佐藤一斎から稲盛和夫 (水)(木)

佐藤一斎(1772-1859)もしくは大塩平八郎(1793-1837)から

西郷南洲(1827-1877)。

西郷南洲から頭山満(1855-1944)。

頭山満から中村天風(1876-1968)

中村天風から

松下幸之助(1894-1989)と稲盛和夫(1932-)。

歴史の中のこの人物の「流れ」が好きである。

後世のもの(後輩)が過去の人物(先輩)を

尊敬し、学んでいった「流れ」とでも

いおうか。

この「流れ」を発見したときは、

歴史の中の「鉱脈」を発見したような喜びが

あった。

あえて共通項を上げれば、理論・哲学(学問)と実践

ということかもしれない。

自分はそういう生き方に憧れをもつものである。

詰まるところは、「徳を磨く」ということであろう。

ただ技術だけの経営者、知識だけの学者なんて、

いくらその人が、金持ちで、有名で、地位があっても、

好きにはなれないし、自分の中では、軽い存在である。

金がなくても地位がなくても“徳”がない人より

“徳”がある人間の方が私の中での地位は高い。

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