January 30, 2009

やむにやまれず発するもの・・・

                                                                                                                                                          

「疲れたら休めばいいんです。よしやるぞ、と気持ちが高まるまでは」

三浦雄一郎さんの、前回紹介したこの言葉は何かを「表現」することにもあてはまるであろう。

 本日の朝日新聞夕刊の『悩みのレッスン』で、美術部に所属するある女子高校生が、お母さんにパソコンを2時間しか使わせてもらえないと悩みを投稿してきたのに対して、創作家の明川哲也さんがこう答えている。

                                                                                                                                                         

(前略)

パソコンでデザインをしなければいけないのに、12時間ではたしかに不満が残るでしょう。でも音楽と同じことで、問われるのは実作業の時間よりも、あなたの頭の中にある創作の広がり、それをどれだけいきいきと保てているかということだと思うのです。その根源があるなら、増殖するイメージの原型を紙に描いてエネルギーを溜め込み、制限されたパソコン時間の中で、マグマのように噴出させることも可能でしょう。

 つまり、状況に不足があることは、決して状況に恵まれていないということではないのです。考え方次第で、あなたの創作魂はいよいよ本物になっていくはずです。

(後略)

                                                                                                                                                            

『言志四録』(講談社学術文庫)の訳者、川上正光氏は、『言志四録(一)言志録』の92条の付記にこう記されている。

                                                                                                                                                               

(前略)

吉田松陰が

『かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂』

と歌ったのも、内にみなぎる大生命の発露であろう。

 我々の仕事や作品も行動も、内からほとばしり出るやむにやまれぬ精神の発露の場合、それは外からは花の如く美しく見えるものである

   (※傍線は私-筆者がつけました)

                                                                                                                                                                  

はたして、俺の「やむにやまれぬ」はいつ発せられるのだろう。

このまま、この世に花を咲かせず、何も残さずに死んでしまうのだろうか。

あせる心を抑えつつ、最後に、この『言志録』92条を書き写します。

                                                                                                                                                            

已むを得ざるに薄(せま)りて、

而(しか)る後(のち)に諸(これ)を

外(そと)に発する者は花なり。

                                                                              

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September 26, 2008

どこまでがあなたでどこまでがじぶん?

                                       

また小難しいことを書いて

本人がわかってないのではないかと

いわれるかもしれませんが、

はっきりといいます。

そうかもしれません。

しかし、わかっていないと

いえば、この“せかい”のことについて

ぼくだけでなく、

多くの人が

なにひとつわかっていないの

かもしれない。

                                                                           

このからだについてだって、

どこまでがじぶんのもので

どこまでがじぶん以外のもの

かだって。

これは、とても痛ましいことですが、

あのベトナムの、枯葉爆弾による

被害者、ベトちゃんドクちゃん。

生まれながらにして、

2人のからだはくっついていました。

でも、あのからだは、

どこからどこまでがベトちゃんで、

どこまでがドクちゃんだったのでしょう。

                                           

                                       

だからといって、

ぼくはある種のスピリチュアリズム、

ちょっと前でいえば、宗教に生きる人たちの

ように、魂や心ばかりを

優先して、身体ばかりを従にする

傾向に、これまでの自分も

そうであったがゆえに、

近頃とても抵抗を感じています。

                                          

                                         

身体はほんとうに意味がないもの

なのか。

魂や心に隷属するものなのだろうか。

もし、この現実界で、

肉体は心や魂を

鍛えるためだけに存在している

ということならば、

この現実に

生きていく意味はないということにも

つながりかねない。

                                            

                                       

じっさいに、

ぼくには魂は見えない、

心も見えない、

見えないばかりではない、

触れないし、つかめないし、

感じていられているかといえば、

ほんとうに感じているか

どうかも不明。

                                          

だからこそ、世間では、

唯脳主義(ゆいのうしゅぎ)的な

脳科学なるものが、

流行っているのかもしれない。

―脳科学を否定しているわけでなく、

脳からみた人間という

捉え方に対して、

ひじょうに浅はかさを感ずることもある

ということです。

ようするに、「それだけなの?」って―

重厚な脳科学といえるものがあるとして、

浅はかな脳科学が流行っていると

するならば、

脳という身体を重視しすぎている

というよりも、

身体というものを、

あまりにも軽視しているがゆえに、

「そう見えて」しまうのではないか。

―この「そう」の「そう」とは

何を指すのでしょうか。

まるで国語の試験問題のようですが、

著者であるぼくは、この「そう」とは

「脳こそが人間の中枢という見方」

と注釈をそえておきましょう。

                                         

                                        

ここでまた小難しいことをいいます。

動物は、自分の身体と他者の身体との

區別がつかないといいます。

人間も赤ちゃんのときはわからない。

ただ、長ずるにおよんで、

母親など他の人間の身体を見て、

触れて感じていくことによって、

自分も同じような身体をもっている

ということに気づいていく。

目の前にいる人間と同じような

独立した(孤立した?)存在で

あるということを意識していく。

                                        

                                          

となると、人間が他の人間との

身体の區別をするということは、

非常に人間的な精神活動であると

いえる。

つまり、動物にはない“精神”の

働きによって、

動物には不可能な

自分の身体と他者の身体との

區別ができるというのです。

                                            

                                       

だからといって、

ここで、人間は、

動物にはない

“精神”というものをもつことによって、

自己と他者との區別がつくように

なったのだから、

「“精神”というものは素晴らしい」

ということを言いたいのではない。

むしろ、自己と他者との區別を

つけがたい肉体というものが

あったればこそ、

“精神”の働きができたということを

いいたいのです。

                                             

                                        

繰り返します。

「ぼくたち人間は、

精神によって、

自己の身体と他者の身体との

境界線をつくった」。

そして、ここから先が

もしかしたら、ぼくが

この記事で一番言いたかったことかもしれない。

その“精神”とは、

人間に備えられた

“錯覚”ではないのか・・・。

あくまでも、

肉体こそが、

人間に与えられている

唯一の現実であるのかもしれない。

そして、その現実は、

他者と自己との身体の

區別をもたない。

“精神”という名の、

人間がなぜか付与された

“錯覚”こそが、

人と人、

人と物との間の

“境界線”を描いてしまった

のだと。

                                              

                                        

すくなくとも、

下記は確かなことです。

「“今ここ”で

身体をもたないじぶんは

“今ここ”にいる

ぼくにとって

存在しない」。

          (了)

                                                          

                                                          

また惑わせるような

ことを書いてしまって

ごめんなさい。

これは、ぼくの描いた

創作(フィクション)と

思ってください。

現に、そんな気分で

書きました。

ただ、読み返してみて、

極端な主張をしているだけに

日常では見られない

真理がちらついている

ような気がする。

ここに書いた意は、

あらためて

ぼくにとって

考えてみる価値が

あることかもしれません。

                                                             

                                                            

                                                         

                                                             

                                                           

                                                              

                                                                                                                                                      

                                                                                                                                                      

                                                                                                                                                          

                                                                                                                                                    

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September 25, 2008

右目を取り外しました・・・

今日ぼくは右目を取り外し、

パソコン用に換えた。

この目をつけさえすれば、

画面に向ってキーボードを

打つだけで、

直接データを脳に書き込むことが

できる。

つまり、パソコン・ディスプレー上に、

自身の脳の中身を

さらけ出しているのと

同じことになる。

こうなると、

いかにも、自分が薄っぺら

人間だということが

白日のもとにさらされてしまう。

CGによって、

立体的に見せられているのだが、

自分の脳という迷宮は

こんなにも単純だったのか

とあきれるばかりだ。

もちろん、

他の人間には決して見せたくない。

ならば、キーボードで、

脳の中にデータをどんどん

打ち込んでいって、

内容を豊富にすればいい

と思われるかもしれない。

ところがどっこい、

データをいくら押し込んでも、

脳の構造自体は

変ることはない。

つまり、ディスプレー上の

CGでいえば、

迷宮を構成する壁は

どんなことをしても、

量を増やしたり、高さや幅を

変えたりしても、

決して変化することはないのだ。

・・・・・

                                        

↑これはもちろん、ぼくの

想像の世界。

でも、近い将来、人類は

同じようなものを開発するのでは

ないか・・・

リバーシブルのコンタクトでなくて

“つけかえ用の眼球”が

ここ数年間の間に、

開発されるかもしれない。

こうした未来が、ぼくたちにとって、

とくに子どもたちにとって、

いい世界なんだろうか、

それとも最悪だろうか・・・

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July 10, 2008

おまえは地球の一部じゃない?

星空を観察していたタロウに、

火星が声をかける。

今晩の火星は

まるで

夜空を見上げる

タロウの目の前にいるような

異様な輝きを見せている。

「おい、タロウ!おまえは、

地球とばっかり付き合ってないで、

たまには、俺とも付き合え!」

タロウはこたえる。

「なにをおっしゃる火星さん、

ぼくは地球の一部ですよ。

ガイアというじゃないですか。

地球と人間は一体なんです」

「タロウ、なにをいう!

おまえは、地球の一部であるように

思ってるかもしれないが、

宇宙の一部でもあるんだぞ。

それは、わしらすべての

惑星、恒星といっしょ。

もちろん、地球だって

まったくかわりはない。

わしら星はもちろん、

あらゆる物質・生物は、

つまり存在は、独立している。

それとともに、

宇宙、いやもっと広い世界

の一部でもある。

つまり、地球とおまえは

対等なんだ。

おまえは、地球の一部であるように

みえて、そうではない。

おまえから見て、

火星のわしと地球、

その他のあらゆる星すべてが

星のひとつにすぎない。

地球とわしら他の星の

違いはおまえから

物理的に近いか

遠いかの違いにすぎない。

だから、おまえが

地球の一部だっていうのは、

一見、正しいように見えるが、

それは一定の見方に過ぎない」

「でも、火星さん、

人間が地球の一部だって認識が

できたからこそ、

地球を大切にしなくちゃ、

みんなで守ろうという

機運が盛り上がっているん

じゃないですか」

「ははは。それで、ほんとうに

地球の環境というものが

守れているかね。

年々、状態は悪くなっているではないか。

緑色が消え、ブルーの輝きが

あせてきているのが、この

火星から見てもよくわかるぞ」

「そういわれてみれば、

そうでしょうが・・・」

「タロウ、おまえは、

地球の一部だってことだけに

固執するから、

地球に甘えているのではないか。

地球は地球、おまえはおまえ、

そういう気概があってこそ、

おまえは、相棒である地球を

大切にしようって本気になれる

んじゃないか」

「でも、自分が地球と対等だなんて、

とても傲慢なような気がします」

「もちろん、自分が地球の一部だ、

ちっぽけな存在なんだということは

一面の見方であり、

一部の真実であろう。

しかし、地球ってなんなんだ、

惑星ってなんなんだ、

恒星ってなんなんだ。

そんなことは人間には

ほんとうにはわかっちゃいない。

それならば、

もっともっと自分の

概念を広げたらどうだ。

広大無辺、

広げられるだけ広げた

世界の中のおまえは一部なんだ。

その中心におまえがいる。

その世界の中でおまえは

ほんの一点であるけど、

ど真ん中に突っ立っている。

そして、そのおまえの

周りをあらゆるものが

廻っているんだ。

その中の1つに地球というものがある。

火星もある、水星もある太陽もある、

月もある…

星ばかりじゃない、

鉛筆もあれば筆箱もある、

テレビもある、ゲームもある、

おまえのお父さんもお母さんも、

友達も、全然しらない人間たちもいる、

熱帯雨林の動物も

サバンナの動物も植物も、昆虫もいる。

すべては、おまえが存在している以上、

おまえが中心なんだ」

「なんだか、わかったような、

わかっていないような…」

「わからなくていい、

ただおまえが、地球の一部にしか

過ぎないんだという

卑屈な見方だけに執着するのは

やめてほしい。

おまえが生まれるずっと前に、

同じく地球のどこかの国で

死んだシャカという人間が

いっていたろう。

“天上天下唯我独尊”って

あの意味は、

よくは知らんが

ワシが今、

言ったことに近いのかもしれんな」

「そうですか…。

でも、ぼくはそのお釈迦様の

言葉を知らないんで…」

「そうか。それはどうでもいい。

とにかく、おまえは、

今日から、

単なる地球の一部じゃなくて、

地球とのパートナーでもある。

そして、わしら他の惑星とも

つきあえることができる。

そう意識をかえさえすればいいんだ。

すべては、この世をどうとらえるかに

かかっているからな。

それでは…」

「火星さん、もう帰ってしまうんですか?」

「そうだ。

というわけで今後もよろしくな」

夜空に異様な輝きで存在感を

しめしていた火星が、

急にいつもの光にかわった。

タロウは少しほっとした

気持になって

窓のところでユラユラと

揺れる

カーテンの中へと入っていった。

               (終わり)

                                           

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July 02, 2008

もう、ありのままを受け入れてくれる人とだけ・・・

もう、ありのままの

自分を受け入れてくれる人とだけ

生きていければいい。

たとえ、そういう人は

すごく希少であるにしても…。

学生時代、

ある女の子は、ぼくが

喫茶店で、その子のジュースに

指を突っ込むふりをして

ちょっとずらして驚かすという

じつにたわいのないイタズラを

したようなとき、

ぼくのニックネームをいって

「○○らしい」と、

ゲラゲラ笑っていた。

彼女といるとき、新鮮だった。

それまで

なにかというと、

マジメだ、まっすぐだ、

何か自分がやったことに対して、

すごい!とか

そんなほめ言葉しかもらった

ことはなかったからだ。

真面目、

正直、

がんばりや・・・・

それは、

おそらく、

他人を意識して

つくりあげた

自分の身を守るための

「鎧(ヨロイ)」である。

ぼくより

3,4歳は年下であったのに

彼女は、

「ほんとうのぼく」という

ものを見てくれていたのだろう。

それいでていつでも

好意的であった。

だから、その子の前では

“自然に”振舞えた。

これまでの人生の中では

数少ない、

今思えばとても大切な人である。

ところが、

なにもわかっていないぼくは

ひどいことをしてしまった。

ちょっと見た目には、

かわいい顔をして

男性からもてるタイプだった

彼女の親友を

自分に紹介してくれと頼んだ。

ぼくに明らかな

好意を示してくれていた

彼女に向って、

「おまえなんか、いやだ。

おまえがいつもいっしょにいる

女のほうがずっといい」

と面と向って告げるのに

等しい依頼を

してしまったのだ。

彼女の親友は

自分のほんとうのことなんか、

少しもわかってくれない、

おそらくわかるときは

永久に

こないだろう人なのに…。

ぼくのほんとうの姿に

関心をもっていた

わけではないのだから。

自分はいつもそうである。

男女を問わず

自分にほんとうの意味で

好意を寄せてくれる人からは

離れようとしてしまう。

そして、

逆に自分に興味をもっていない、

ときに自分に

悪意すら抱いているであろう

人間を追いかけてしまう。

その人間への憎しみを

心の奥底に溜め込みながら。

それは「押さば引け、

引かば押せ」

という駆け引きのような

意図的なものではなく

もっと無意識から

来ている行動である。

だから、絶望的な

結果となる。

人の愛を受け入れられない、

そして永久に人を愛せない、

人間とは自分のような者の

ことなのかもしれない…。

ぼくに心を開いてくれた、

そして

ぼくが心を開くことができた、

“めずらしい人”である

“彼女”のしあわせを

今はただただ、

祈ることだけしか

できることはない。

           

(追記)

 だから、

前の記事で紹介した

この歌はよくわかる…

「06.wma」をダウンロード

                                         

                           

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April 28, 2008

てらい

どうしても

ことばに衒(てら)いが

出てしまう。

正直に書けない。

このことばもそうでしょ?

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December 13, 2007

ダジャレをバカにしたらあきまへんで

                                          

                                          

親父ギャグをバカにしたら

                                        

あきまへんで。

                                        

ダジャレっつうのは、

                                            

日本の文化でっせ。

                                           

そうやろう?

                                       

日本語ほど、ダジャレがつくりやすい

                                       

言葉はないんとちがいまっか。

                                         

それは、日本語が

                                          

よりホリスティック(※)

                                        

ちゅうことやろう!

                                                                   

だからエライねん。

                                           

                                           

なあ、おっちゃん。

                                      

(※holistic ギリシャ語の「holos」=「全体、全人的」が語源)

                                             

                                               

                                                          

                                                              

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December 16, 2006

 氷 ~ とある風俗の女性の嘆き

ここにくるとき、身も心も氷にするって決めたの。

でも・・・、もう・・・、とけてしまいそうなの。

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だまされない

たとえ、安アパートで

一人のたれ死んでも、

愛なんてことばにゃ、だまされねえ

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November 24, 2006

命なんだ!

  こわれる

             われる

     ひきさかれる

命なんだ!命なんだ!

             ちしぶきをあげる

 くるしむ

         うめく

命なんだ!命なんだ!

くちる

はてる

きえる

命なんだ!命なんだ!

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