『正法眼蔵』講義および『母の祈り』
道元禅師は「只管打座」の法門を日本に広められた。これは、「ただ坐ること」である。悟るために坐るのでなく、ただ坐るのである。行ずることそのことになりきるのである。一見、楽しそうに見えて実はなかなか到達できないすばらしい世界、「ただ・・・・・・する」という世界に、このとき禅師は眼を開かされたのである。 紀野一義著『名僧列伝(一)』
『名僧列伝』を読んでいて、「道元」の章に入るとなめらかに心に溶け合ってくるような感覚を覚えた。どうも、道元や曹洞宗とは前世よりの因縁がありそうだ。じつは私が入ることになっている霊園も曹洞宗のあるお寺の管轄になっている。たまたまそうであったということだけであるが。
今日も谷中の全生庵で、紀野一義先生による『正法眼蔵を現代に生かす』の講義を受けた。
紀野先生のお母様が、台湾に出兵されている息子(先生)のことを仏様に祈り、
「どうか私の命はいりませんから、カズちゃん(紀野先生のこと)をお守りください」
と毎日お願いしていたそうだ。
先生はそれについて
「仏様にお母さんが、私の命もカズちゃんの命もどうか助けてくださいとお祈りしていりゃよかったのに。だから、私だけが生き残り、広島に原爆がおちてお母さんだけが死んでしまったんだ」
とたんたんと述べられていた。
私は聞きながら、メガネの下がぬれて仕方がなかった。人に悟られるのではないかと気になってしょうがなかった。
今まで参加したさまざまな方の講演・講義の中で、ここまで「目がぬれた」のは初めてだったかもしれない。
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