February 23, 2010

『正法眼蔵』講義および『母の祈り』

道元禅師は「只管打座」の法門を日本に広められた。これは、「ただ坐ること」である。悟るために坐るのでなく、ただ坐るのである。行ずることそのことになりきるのである。一見、楽しそうに見えて実はなかなか到達できないすばらしい世界、「ただ・・・・・・する」という世界に、このとき禅師は眼を開かされたのである。 紀野一義著『名僧列伝(一)』

『名僧列伝』を読んでいて、「道元」の章に入るとなめらかに心に溶け合ってくるような感覚を覚えた。どうも、道元や曹洞宗とは前世よりの因縁がありそうだ。じつは私が入ることになっている霊園も曹洞宗のあるお寺の管轄になっている。たまたまそうであったということだけであるが。

今日も谷中の全生庵で、紀野一義先生による『正法眼蔵を現代に生かす』の講義を受けた。

                                          

紀野先生のお母様が、台湾に出兵されている息子(先生)のことを仏様に祈り、

「どうか私の命はいりませんから、カズちゃん(紀野先生のこと)をお守りください」

と毎日お願いしていたそうだ。

先生はそれについて

「仏様にお母さんが、私の命もカズちゃんの命もどうか助けてくださいとお祈りしていりゃよかったのに。だから、私だけが生き残り、広島に原爆がおちてお母さんだけが死んでしまったんだ」

とたんたんと述べられていた。

 私は聞きながら、メガネの下がぬれて仕方がなかった。人に悟られるのではないかと気になってしょうがなかった。

 今まで参加したさまざまな方の講演・講義の中で、ここまで「目がぬれた」のは初めてだったかもしれない。

                                                       

                                                           

                                                                 

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August 26, 2009

弱さを自覚すればするほど、神の力をいただける

中村天風の唱句に

「私は力だ。力の結晶だ。」

というのがありますが、それは

それで、唱えると元気になり、エネルギーが

出てくるので、有り難いのです。

しかし、

神様よりの力という感覚では、

自分が弱い、徹底的に自己の弱さ、小ささを

認識した時の方が、働くような気がします。

それは、キリスト教に近い感覚かもしれません。

                                                   

                                                         

                                                      

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August 14, 2009

この世のすべてはどうでもいいこと

この世界のほとんどあらゆる事が

「どうでもいいこと」であるのかもしれない

のですよね。

「どうでもいいことでない」と決めているのは

その人であって、

仕事だって、趣味だって、恋愛だって、

人間関係だって、使命だって、信仰だって・・・

ほんとうは「どうでもいいこと」なの

かもしれないのです。

「どうでもいいこと」を「どうでもいいことでないこと」

と決めることによって苦しみが生まれていると

したならば、

いったん、「この世のすべてはどうでもいいこと」

に戻ってみるのをいいかもしれませんね。

そこから「どうでもいいことでないこと」

を決めてみるのも遅くはないでしょう。

                                                                             

                                                                                                             

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July 05, 2009

神の計画と自分の計画

自分の立てた計画がちっともうまく行かないことが多い。

数少ない成功体験をふりかえってみると、

自分が立てた計画でうまく行ったのは

神さまの計画を自分の計画としたときだけであったようにも思える。

いや、自分で立てた計画を強引に達成して、それがもしかしたら神さまのご意志ではなかったのかもしれないと感じたときの空しさがいやであるからこそ、

自分がその計画を遂行していくことに躊躇し、その結果、うまくいかないことが多いという悪循環に陥っているかもしれない。

なんにしても、神さま仏さまのご計画に身をゆだねてしまえば

これほどに楽なことはないだろう。

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July 01, 2009

大局的にものを見る 天台宗大阿闍梨・酒井雄哉氏

大局的にものを見てください。今を大切にして大局的にものを見て、現実の世界と離れるんじゃなくて、大局的な一つの路線を中心にその回りで今の問題を解決しながら、本線を間違えないように生きなさいという。僕が小学校の頃、中学校に入った頃、誰かがそういうことを教えてくれていたらね。坊さんにならねえですんだと思うね。他のことやっていたと思うよ。   酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)

先月(20096月)BSフジを見ていて、天台宗大阿闍梨の酒井雄哉氏が「若い方に向けてなにか」の質問にこう答えておられた。この大局とはどういうものだろうか。プレジデント200391日号にはこうある。

―どうしたら「金剛心(仏教のことばで固い決意を示す)」が身につくのでしょうか。

 覚悟を決めるというか。腹を据えて実行することかな。ただし、その目標はなるべく大きな視点で考えることが大切なんですよ。一生を貫くような、さらにいえば世界を覆うような大きな視点だね。そうしないと日々の生活に惑わされてしまう。仏教的に言えば「仏様に任せて、あとは何も考えない」ということかな。そうすると一生に何一つ無駄なもののないことがわかってくる。

 仏教に帰依していない者がどうすれば大局的にものをみて、志を立てることができるのか。酒井氏のおっしゃっているのは、今、思っている“大局”でいいのだろうか。もっと勉強したい。

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September 04, 2008

成功、成功、成功・・・狭すぎる!

成功、成功、・・・

巷にあふれている。

広辞苑で調べてみる。

①目的を達成すること。事業などをなしとげること。

②転じて、地位や富を得ること。「―者」

よし、○○文学全集をここ2年間で

読み終わろう、という目的を達成したとして、

誰も彼のことを成功者とはいわない。

世間でもてはやされている成功とは、

①にある「目的を達成すること」ではなくて、

②の地位や富を得ることであろう。

とくに、①にある「事業」も入るが、

実業家的、経営者的な成功をした人こそが

成功者であるようだ

「立身出世」を目指した明治時代は、

「末は博士か大臣か」だったのだから、

時代と共に、成功のイメージはかわっている。

成功?と聞いて、

20代のころ、何十万もする

成功哲学の教材を買わされてしまった

反省もふくめて、

「バカらしい!」という

想いが先行してしまう。

それは、感情だけではない

理屈もついている。

それは、「成功者」や「成功」という

言葉の概念がごく限られた範囲の

ものであるのに、

みんながみんなそれを目指している

バカさ加減にある

反対にそれを目指さない、

または成功していない人間は

価値のない者であるというように

とらえられていることを

人々の多くが甘んじて受けている

ことにある。

もちろん、

成功することが向いている人は、

経営でも事業でも、商売でも

金銭的にかえってくるものを

やればよい。

ただ、それは、人間が人生で

行うべき、

数万あるか、数億あるかは

知らないが、

無限にある事の、

ほんの一部にしかすぎないの

である。

それなのに、ほとんどの日本人が、

そのほんの一部を得ようと

躍起になっている。

成功、成功、と煽り立てている

マスコミにだまされている。

古人のゆたかさを見よ。

勿論、金銭的物質的な

豊かさではなく、

心の豊かさである。

それこそが、今、

日本人にもっとも必要な

ことではないか。

金も物も必要だが、

最低限あればいい。

心の豊かさは、

無限にある。

そして、そこには

みんなに通用する

あなただけの世界がある。

あなたは、

そのままでいい。

                                         

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April 25, 2008

宿命を受け入れる

                                                                        

ありのままの自分を受け入れて生きる

ということは、

避けようのない運命

つまり宿命を受け入れて生きる

というところまで、

いかなければ真に腰が据わらない

のかもしれない。

でも、自分にそれができるかどうか・・・。

身近な大切な人がいなくなるのに

ふたたび堪える自信はないし、

それを考えるだけで、

おそろしくなってくる。

誰にでも

もう一度もどって

やりなおしたい

過去があるのだろうが、

戻るわけには

いかない。

殺したいような

相手との出会いで

あっても、

だからといって

相手を抹殺することはできないし、

たとえできたとしても、

そうしたがゆえに、

心の中に

相手がしみついて

ますます消し去ることが

できなくなるであろう。

多くの人間が神仏に頼らざるを

えないのは、

こうした受け入れざるをえない

宿命を受け入れることができるように

なるためではないか。

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December 27, 2006

mou・・・

神というのは自分のこころにもある。

そして、そう創ったものこそ神ではないか。

無理矢理、信仰をするのではない。もう信仰しているのだ。

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November 30, 2006

他から促されるままでいいのか

私のこれまでの生活で、自分は気がすすまぬながらも、他からつよく促されて行ったことは、ほとんどつねによい結果をみたが、自分の発意で着手し、自分ではよいと思ったことは、一向によかったためしがない。    ヒルティ(哲学者、国際法の大家)

ニートになる人の多くが、自分で自分の人生を選択してこなかったという。たとえば、親から与えられたレールの上にだけのってきて、自分で自分の人生に責任を取ろうとはしなかった。

私もお恥ずかしい限りだが、人生の決断を大人になってまで人にまかせてきたという経歴があり、人から頼まれたこと、指示されたことを断るのが苦手という性格をいまだに持ち合わせている

「自分は気がすすまぬながらも、他からつよく促されて行ったこと」とは、この場合、ヒルティはキリスト教の信者だから「神から与えられた」ことであるが、私のような浅学の信仰浅き者からしてみれば、「与えられてやる」という意味では、ニートの場合もどちらも変わりなく思えてしまう。

私も、断れる断れないは抜きにしても、できるだけ与えられたことはやろうとしている。特に、偶然に偶然が二重三重と重なったときなどは、それを偶然ととらえず、「神から与えられた必然」としてやらねばならないという思いに駆られ、実行する。それはそれでいいのだ。

ただヒルティは「ほとんどつねによい結果をみたが、」と書いているが、私はなんともいえない。というよりか、それによって、いやな思いをしたりしたことも多かった。

その経験を分析してみると、「他からつよく促されて行った」ときはいいのだけど、それによって始まった事柄をやめるべきときがきても、だらだらとやめないでいたときに、いやな思いになったようにも思う。

他から与えられるがままに身をまかせていくこは、とくに何かに着手するときはそれでいい、むしろその方がいいのかもしれないが、それをやめるときは、自らの発意によって、決断してやめなくてはならないのではないか。

それを一言で表しているのが、河井継之助の

進むときは人任せ、退くときは自ら決せよ

という言葉である。

そんなことをふと思いつき、ここに書いてみた。

ただ、もしかしたら、退くタイミングというものも、神は教えてくれているのに本人が気がつかないだけということもあるかもしれない。

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November 29, 2006

それじゃ、おまえはなんなんだ?

日蓮宗のある信者の方に連れられて、

身延山にお参りに行ったことがあった。

そのお堂の中に、大きな像があり、

私はそれを日蓮かと思った。

そして、信者ではない自分は、

お参りをするときに、

心の中で、

「私は○○○○を尊敬するものです。

信じるものです」

といった自己紹介をした。

すると、

「○○○○は分かった。

それじゃ、おまえはなんなのだ?

何者なのだ?」

と問われたような気がした。

そのときの、衝撃はいまだに心から離れない。

意識のないはずの像から語りかけられたような

気がしたことが衝撃なのではない。

それは、ただ単に、自分の潜在意識の声なの

かもしれない。

その問いそのものに、

ガンと衝撃を受け、

心がえぐられたような気持ちになったのである。

「○○○○は分かった。

それじゃ、おまえはなんなのだ?

何者なのだ?」

「・・・・・・・・

・・・・・・・・

 ・・・・・・・・」

その後、私に語りかけたような気がした大きな像は

釈迦であるということがわかった。

ということは、その問いの意味は、

“天上天下唯我独尊”ということなのか、

“自燈明”ということなのか・・・。

まだ、よくはわからない。

ただ、その問いは、今でも忘れられない。

「それじゃ、

おまえはなんなのだ?

何者なのだ?」

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