November 04, 2009

志少しも退かず~沢庵(8)

最後に関連して

二つの言葉をあげておきます。

已むを得ざるにせまりて、

しかる後に、

これを外に発する者は花なり。『言志録』

かくすれば

かくなるものと

知りながら

やむにやまれぬ

大和魂    吉田松陰   

      (終)

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November 02, 2009

志少しも退かず~沢庵(7)

志に向かわざるを得ないから向かう。

夢を追いかけざるを得ないから追いかける。

それが、ほんとうの志や夢であろう。

そして、その背後には

人間にはとうていはかり知ることができない

大きな力が働いているのだ。

今、若い子たち、子どもたちが

夢を持たなければならない、

目標を持たなければならないと

追い立てられているということを聞いた。

夢が自分の力でもてることができるものではない

ということを知ったなら、

志、夢を求めてあてもなくさまようのは、

完全にムダといわないが、

かなりの浪費であろう。

志、夢がなくて探すのに、有効な場合は、

志や夢をさがさざるを得ない、

いても立ってもいられない、

夢をさがすという夢が心の内に

植えつけられたときのみではないかと思う。

もし志や夢が今、ないというならば、

目の前にあることに感謝してこなしていくべき

なのだろう。

もしも、

背後に大いなるもの(神といっても仏といってもいい)

の働きがあるほんとうの志、夢なら

今それに向かっていくことは

「今ここ」を大切にしていることになる。

なぜならば、志や夢というものは、

自分の心の中に「今在る」ものなのだからだ。

それに向かうという事は

今を大切にしていることに他ならない。

それ以外の外部から取ってつけたような

夢、志であるならば、

それに向かうことは

今を犠牲にするということと

等しいといっても

過言ではないのではないか。

                                                                              

 

とにかく、夢を持て、

何かを目指せと、

子どもたちや若者を

追い立てるのはやめたいものだ。

                                             

          (つづく)

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October 30, 2009

志少しも退かず~沢庵(6)

紀野一義『私の歎異抄』には

親鸞が「ただ念仏した」ことをあげて、

(前略)

要するに「ただ称える」のである。

誰かのためにするとか、人類のためにするとか、

そういうめんどうくさいものではない。

ただ親切にする。

ただ愛する。

風が吹くようにただただ行くのである。

もっとも、このただ称えるというのは、

うしろにもう1つある。

ただやりさえすればいいというのではない。

やらずにおれぬということがかくれている。

これが「ただ」の恐ろしさである。

背後からその者に行なわしめるものがいる。

促すものといってもよい。

新設にせずにはおれないから親切にする。

愛さずにはおれないから愛する。

どういうことがあっても止まらぬ力、

誰が止めても止まらぬ力、

どんなになってもせずにはおれない力が、

背後からいやおうなしに迫ってくる。

その時に「ただ」という世界が始まる。

(後略)   (つづく)

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October 28, 2009

志少しも退かず~沢庵(5)

『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本には、

こうあります。

アメリカ大陸を発見したコロンブスのことを書いて

昨日の夢は今日の現実にほかならぬことを信じ、

且つ知るところにわたしどもは来つつありはしないでしょうか。

ひとかどの事を成し遂げた人で夢想家呼ばわりをされなかった

者がいるでしょうか。

事実、彼のヴィジョンは只の夢でしかなかったろうか。

夢とは、実は、偉大なる普遍心、即ち神によって

植えつけられ、やがて現として提示された

神の理念ではなかったか

(中略)

神が一切を通じて現われ給う行き方はこんな風ではないでしょうか。

(後略)

           ※傍線は筆者

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、

人間の中に神があって、だからこそ

人間の力は無限であると言っているのですが、

それは、やはり他力と同じ事を言っているのだと

私は思います。

「志や夢とは、神様に植えつけられるもの」

なのです。(つづく)

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October 23, 2009

志少しも退かず~沢庵(3)

志や夢を遂げるには、

-※私は志と夢と違うと思うのですが、

ここでは区別しないでおきます-

「子を失いたる親のごとく」

その志や夢のことを思うことが大事である。

沢庵の場合、仏の道をさしているのだろうが、

他のことでも同じであり、

また成功者の書いた本などいろいろなところで

「寝ても覚めてもそのことを思う」

ことの大切さは書かれている。

ただ、そもそも、志や夢というものは、

持とうと思って持てるものではないのではないか。

自力と他力でいえば、

他力の領域に入るものであろうと私は考えている。

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October 19, 2009

「今ココニ」生きているか?(2)

映画「今を生きる」も

言うなれば「今ココニ」がテーマだった。

ある進学校に赴任してきた

新任の教師が受け持ちの生徒たちに、

自分の心に正直に

「今」を大切に生きることを教える。

お蔭で生徒たちが生き生きと青春時代を

生きるようになる。

ところが、

ある生徒はそれまでと同じように

厳しい親より勉強をすることを強いられ、

ようやく見つけた演劇という生きがいを

奪われ、自殺してしまう。

責任を問われた教師は、学校を去っていく。

しかし、生徒たちの心に芽生えた

希望は消えずに胸の中で燃え続ける・・

大雑把にこんな内容だったと思う。

ところで、自分はうちの子供たちに

「今ココニ」を大切にして生きさせているだろうか。

「おまえの将来のためだ」といって

無理矢理、勉強させたり、習い事をさせたり

して、子どものたちの「今ココニ」を

奪っていないだろうか・・・。

子どもに「今ココニ」を生きさせるためには

親がまず「今ココニ」生きなければならない。

子どもの「今ココニ」を大切にして親は生きることは

できないが

自分自身の「今ココニ」を大切にすることはできる。

こうして、自ら示す以外は、

子どもたちを導く手立てはないだろう。

そして、もっとも確実な方法であると思うのだ。

                                         

                                         

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October 14, 2009

「今ココニ」生きているか?(1)

「将来偉くなろうと思って『今を犠牲にして生きる』のは本当の生き方ではない。

たまたまチャンネルをつけたら

NHK「あの人に会いたい」、中野孝次だった。

熱いものがこみ上げてくる。

2004年に亡くなられた作家である。

その死を知った時は、少し大げさかもしれないが、

呆然自失といった言葉に近い

心の状態となった。

それまでずっと中野孝次の著作にある言葉に

励まされて生きてきたからだ。

今でもそうであるが・・・。

上にあげた言葉は、番組の終了間際に中野が

言っていたものである。

そして、続けて次の文字が書かれた

色紙を見せてくれた。

「今ココニ」を生きる、それが生のすべてだ。 中野孝次

なんども、著作で読んだ言葉である。

でも、あらためて見せられて、心を洗われるような

思いとなった。

自分はほんとうに「今ココニ」を大切にして生きているだろうか。

将来の夢―志というものに引きずられて

生きていないか。

「今ココニ」を大切にするための「志」がほんとうの「志」と

以前、気づいたことをもう忘れていないか・・・。(つづく)

                                        

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October 12, 2009

頭山満 独りでいても・・・(5)

またここで冒頭から紹介している頭山満の言葉、

その最後のしめをあげます。

独りで居ても淋しくない人間になれ。

子供の時からこの考えでいたが、今でもそうぢゃ。

世間には、自分が浪人者だから、

不遇ぢゃの、気の毒ぢゃのといふ者が

あるやうぢゃが、自分は何とも思はん。

不満も不平もない。

日本といふ結構な国に生れたことが何より

有難い。

ただ開闢以来、祖先から受けた大恩を如何にして

報ゆるか、それを只管考へるだけだ。

その為には励積あるのみぢゃ。

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October 09, 2009

頭山満 独りでいても・・・(4)

『言志録』にもこうある。

士は当に己に在る者を恃むべし。

動天驚地極大の事業も、

亦すべて一己より締造す。 

〔訳文〕

およそ、大丈夫たるものは、自分自身にある者を

たのむべきで、

他人の智慧や財力、権力などをたのみにしてはなにが

できようか。

天を動かし、地を驚かすような大事業も、

すべて、己一個より造り出されるものである。

             (川上正光全訳注『言志録』より)

士は独立自信を貴ぶ。

熱に依り炎に附くの念起すべからず。

                                                                        

〔訳文〕

丈夫たるものは、他に頼らず、一人立って、

自信をもって行動することを貴ぶ。

権力ある者にこびたり、

富貴の者に付き従うような考えを起こしてはいけない。

         (川上正光全訳注『言志録』より)

                                                                                                                                                                  

“一人”=“独り”がいかに尊いことか・・・。

すべては一人から始まるのだ。

一人が淋しくて群れをなして、

そこから外れたくなくて悪い事をする。

なんて、情けないのだろう。

                                                                                  

                                                                                                                                                                               

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October 07, 2009

頭山満 独りでいても・・・(3)

インドの詩人タゴールが作詞した

『エコラ・チャロ(独り歩め)』の歌詞の意味、

他人がどうであれ、断固として独り歩め

その心は、頭山満の言葉にそっくりではないか。

冒頭に掲げた言の続きである。

笑ふ奴は笑わせて置けばよい。

佐久間象山は

「嗤ふ者汝の嗤ふに委す。謗る者汝の謗るに委す。天光我を知る。他人の知るを求めず」

というてをる。強いて知己を人間に求めようと思っていない。

天地を相手としてをればそれでよい。

自分一人を多数と思うてをる。

独りで居ても淋しくない人間でなくてはならん。

自分は絶対の魂は人後に落ちんが、

学者でもなければ能者でもない。

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